8月 25, 2012

見せたい姿と、あるべき姿のギャップ


見せたい姿と、あるべき姿のギャップ。
自分自身に関して、あるいは周りにいる人に対してこの様なものを感じた事は有りませんか。

私はしょっちゅう考えます。要は客観性の問題でもあるんですよね。
「自分の事はよく見えない」というあれです。

たまに「俺はメチャメチャ自分が客観的に見えている」って言う人に会ったりするんですけど、そういう人は他人の意見は求めてないでしょうし、敢えてこちらから何か言う事は特にないのですが、本当に稀に突っ込みを入れた時に、そういう人たちが揃って口にするのが「わざとやってる」「計算している」、つまり「あんたみたいな凡人にはわからないよ(俺は特別鋭いんだから)」ってやつです。

でも、大多数を占める凡人に伝わらないのですから、私が「相手にはあなたが希望している様な姿に映らないのでは?」と突っ込みを入れるのは、当然のことながら、ほぼ正しいわけです(笑)
そして次にくるのは「別に全員に分ってもらおうとなんてしていない」「分って欲しい人にだけ、分ってもらえればいいんだ」ですかね。本当にそう思っているんですかね?ちょっと疑問です。
それにこの少数の “分ってくれる”人たちは、そういう人の表に現れている姿を「?」と思いながらも、他の部分をもって帳消しにしてくれているだけかもしれません。
つまり “分って” くれている訳ではなく、ただ調子を合わせているだけという可能性がかなりあるんじゃないかなぁと思うんです。

なので、これって自分自身の事を考える時が一番難しいですよね。
さっきも書いたように、いわゆる仲の良い人は、本当に相手のことを思ってくれる親友レベルの人でもないと、なかなか自分が思っていることを率直に伝えてくれたりはしません。ただ仲良く?付合ってくれているだけなので調子だけ合わせたりするんです。
かたや、仲の良くない人やライバル視している人、どちらかと言えば自分の苦手な人の言葉は、意外と本当のことを言っていることが多いのですが、どうしても素直に受け取りずらいものです。どうしても好意的には考えられなくなりますからね。

しかし、見せたい姿と、あるべき姿のギャップを埋めるためには、それらの様な一見批判的、非好意的な意見からも、冷静に、自分の印象のデータを収集し、修正していけるかどうかというのが非常に大切になるのです。

それって企業に置き換えても同じですよね。
ファンじゃない人たちのネガティブな意見を含めた反応から、ただの罵倒や中傷を区別し選り分けながらも、大切な意見(反応)を見逃さないようにする。でないと裸の王様になってしまいますもんね。

8月 21, 2012

少しは考えろ!


ちょっと前に、「いつまでも考えてないでやれ」というタイトルで記事をポストしましたが、もちろん、それとは逆に「少しは考えろ!」と言いたくなる様なシチュエーションもかなりあります(笑)。

ま、本当に何も考えないでただやっちゃったんだなぁと思うものもあるのですが、たいていの場合、何かは考えてるはずだと思うんです、その人なりに。

とすると、その人は “ピントのずれた事を考えている” か、“考えが浅い” か、ということになります。
でも、全部が全部それで片付いちゃう問題なのでしょうか?

ちょっと思い出して下さい。ある人が「少しは考えろ!」と言うとき、だいたいその前後に「これは元々こういうもので、今回の場合こうしたいんだから云々」というような大前提の話が出て来たりしませんか?
言われた方は「それ初めて聞いたんですけど。。」みたいに感じるものが。

この場合「少しは考えろ!」って言う方は、このことを、ちゃんと最初に言ってあったんでしょうか?言った気になっているだけってことはないでしょうかね?

これは実は仕事のオリエンも同じなんです。相手に “考えて” 仕事をして欲しい場合、もっともちゃんと伝えなければならない、決めなければならないのがこの前提。つまり様々な条件なんです。
伝える側なら出来ればシートとかに纏めて、オリエンを受ける側なら必要項目をメモしておいて話に出てこなかった部分は質問しなければなりません。
この部分で不明になっている事が多くなるほど、いくら一生懸命考えたところでピントのずれたもの、考えの浅いものが出来てしまうというわけです。

その会社や製品のおかれた環境や状況、ターゲット、直接メッセージを伝えたいと思っている相手、その人たちがこのメッセージに触れると想定している場所、得たい効果、そして、これが一番難しいのですが、業界では当たり前の常識になってしまっている部分など、これらのような前提条件を出来るだけクリアにし共通認識して、話が噛み合わないままお互い無駄な時間を費やす事のないようにすることが、ものすごく大切なのです。

8月 15, 2012

面白さ


私たちが広告や販促物などを制作する際、常に、出たアイデアが「それでいいかどうか」の判断基準にしなければならないのが “それは面白いか?” です。

面白いといっても単純に笑えるという意味では有りません。
へぇ!って感心出来るものも、じ〜んと感動出来るものも、なるほど、そうだ!と共感出来るものも含めた大きな意味での面白いという事です。

でも、難しいですよね。
前に何度か書いた事とも繋がるのですが、人が面白いって感じる事は “思いつきそうで思いつかなかった” といった様に感じるものだったりしますが、実はこれってだいたい誰もが心の何処かで思いついている事で、ただ、その表現の仕方が巧妙なものだったりするんです。

かといってありきたりの事でも凄く良いコピーやヴィジュアルで表現出来ていれば面白くなるのか?といえばそういうことはなく、ありきたりの事はやっぱりありきたりなんですよね。

理屈だけから考えたものは、最終的に表現として出来上がったものがつまらなくなったり、かといって小手先の表現は所詮小手先の表現でしかないし、逆に表現的な面白さだけから考えたものは、広告・販促的なメッセージや、その企業や商品のブランドを構築する上での戦略的な視点から外れてしまったりする事も多く、いずれも片手落ちだったりするのは正に上記の「面白いものとは何か?」の問題だったりします。

つまり、理屈だけから考えられたものは、表現として人の目に触れる最終的な状態では、どちらかというと “ありきたり” のつまらないものになりがちだし、表現的な面白さだけから考えられたものは、そのブランドとしてのマーケティング的な視点が抜け、人が、関心、感動、共感するための、人にとっての身近さが薄く、これもまた一部のごく限られた人たちを除き “面白い” というほどにはならない事が多いのです。

ですので、表現のアイデアを考える際は、面倒くさがらず、常にその両方の間を何度も行ったり来たりしながら考えなければならないんですよね。

ちなみに伝えたいメッセージがちゃんと表現出来ていれば面白い必要なんてない!というのは無いですよね。書いてあっても伝わらなければ意味無いですもんね。
やっぱり面白くなければ伝わらないのじゃないでしょうか。

8月 12, 2012

いつまでも考えてないでやれ

「いつまでも考えてないで、さっさと手を動かせ」

よく言われた言葉ですが実はずっと嫌いな言葉でした。

「デザインは単なる感性や手先の技術だけじゃなく、その前にそれに触れる人や触れるときの環境、そして何よりも正しく伝わるようにちゃんと考えて作業するべき」って思っていたからです。

ま、そんなの当然の事で “さっさと手を動かせ” の本当の意味は、
「いつまでも頭の中だけで考えていたって、実際に絵にした時にインパクトが無かったり面白くなかったり、ちゃんと着地しないものだったら意味無いし、そんなものは時間の無駄になってしまうから、方向性が定まったらあとは手を動かしながら(作りながら)考えろ」って事なんですけどね。若い頃はなかなかそこまで分らなかったんですね。
でもこの様な意味だったんだって分ってみると、この、手を動かしながら考えるって事の重要性をひしひしと感じずにはおれないんですよね。。

最近は、効率化だとか合理化だとかそんな言葉がもてはやされ始め、「とにかく無駄な事は一切やりたくない」というようなムードは私たちの仕事の周りでも以前より更に大きくなっている様に思います。
もちろんコミニュケーションのミスなどで、本当に無駄な事をしなければならなくなるときも多々有り、それにはこちらも人間ですし正直うんざりする事も有ります。もちろん、そういった事は出来るだけ無くした方が時間的にも金銭的にも無駄が無くなりますし、発注者側にとっても制作者側にとっても良い事であるのは確かです。
しかしその事を拡大解釈してしまっているというか勘違いして認識してしまっているクリエーターも出てきている様に見えるんですよね。

仕上がりの精度を上げていくためのトライアルや模索までも時間やコストを理由に避けようとする人たちが増えてきているように思うんです。
これはあくまでも自分が作業をする場合に限っての事で、誰か第三者にデザインやコピーライティングを頼む場合はもちろんそんなこと言えません。特にコスト的に厳しくなってきている今、「それとは別の話で、もっと案を作ってくれ」とは言えませんからね。

でもそれと同じ理由で自分の労力を惜しむというのはちょっと違うような気がしています。
なにしろ、“やってみなければ分らない事” は、経験云々ではなく本当に沢山ありますから。というか、だいたいの事はそうじゃないかと思うくらい。

やってみてダメだった場合、表現の問題というだけで納まらない事も多く、企画から考え直さなければならない事も有るのです。

どこまでがビジネスとして不必要な無駄で、どこまでがクリエイティブとして必要な無駄なのか。多くの人が改めて考えてみる必要があると思います。

8月 10, 2012

インパクト


最近「広告や販促物などのデザインやコピーにインパクトを出すって、色々な意味で難しい問題なんだなぁ」と考えてしまうシチュエーションが結構あります。

“色々な意味で” と書いたのは、単に目立てば良いってもんじゃないというマーケティング的な問題や、デザインやコピーにインパクトを出すための技術的な問題だけではなく、そもそも「インパクトなんて必要ない」と思われているツールやタッチポイント、戦略的なシチュエーションが有るという問題も多いと考えるからです。

なぜそのような事になっちゃっているんでしょう?出る杭は打たれるとか、沈黙は金とかのような諺もあるように、文化的な何かから来ているのでしょうかね?

単に目立てば良いって事じゃないというマーケティング的な意味の方は、そりゃ当然難しいわけで、簡単だったら我々は苦労しないどころか仕事が無くなってしまいますね(笑)

しかし、どちらかというと後者の「あまり目立たない様に発信して、でも伝えたいことは相手にちゃんと届けたい」という話の方がさらに大変です。

そういう状況になると、どうしても真っ先に頭に浮かんでくるのは「そんなことは無理」「効かない物になってしまう」「意味がない」というような言葉で、若い頃から、どうやって他の物や競合より上手く目立たせるか?ばかり考えさせられてきた私たちには信じられないことだからなんです。

でも実はこの “目立たない様に” にも二種類あるんです。

一つ目は、発注者として、とにかく何かやれば、少なくとも会社(あるいは上司)の命令は、つつがなく遂行した事になるから、あまり余計な事をやり過ぎて逆に悪い効果が出たら嫌だという、所謂保身感情からくる目的のすり替え。これは本当にその企業にとって大きな損失を生むものです。

かたや、単純に “悪目立ちしたくない” というだけの意味のものもあるのです。

後者の意味で発注者が言ったにも関わらず、“目立たない様に”という、言葉だけで私たちが勝手に前者の意味でとってしまうことや、発注者が上司から、そのような意味で注意されたのに対し、制作者にその言葉だけをそのまま伝えてしまうケースもあります。

何かをアピールする事や特徴を分りやすく出す事と、そのブランドに全く関係無くただ目立って名前を憶えてもらえれば良いという事や、メッセージを訴えたい人たちの普段活動する環境から心の中に作られている感覚を無視して突飛な事をやるという事は全く違う話です。
打ち合せなどの会話の中に「目立ちすぎない様に」という言葉が出た時は、そのまま言葉通りに受け理解した事にしてしまうのではなく、上記の事を念頭にどういう意味での “目立たない様に” なのかをきちんと確認した上で対応をしていく必要がありますよね。

でないと、それこそ何の効果も出ない意味のないもを作ってしまう事になっちゃいますから。