7月 19, 2010

企業ブランディングと製品ポジショニング

相変わらず"ブランディング"という言葉をよく耳にしますが、聞いていると、
どうもセールス・プロモーションの様な・・・、ということがあります。

で、考えてみたんですが、

私は "ブランディング" と言うとき、ほぼ"コーポレート・ブランディング"の
ことを 念頭に考えていたんですが、かたや

「それってセールス・プロモーションじゃない?」

って方は、もしかしたら、商品の"販売戦略上のポジショニング"を念頭において
語たられてるのかな?って思ったんですね。

企業ブランディングでも、ポジショニングが大きな位置を占めるわけで、
つまり、その

 "ポジショニング"という言葉からの混乱

が起きているんじゃないかと。

私は、企業ブランディングにおけるポジショニングは、その会社が、
どこの位置に属するか?あるいは逆に、どこの位置に属していると思われたら
ダメなのか?という、要は"何ものか?""何ものになりたいのか?"だと考えてます。

それはどちらかというと、"現時点での瞬間的な"状況や環境に 左右されてブレるもの
ではなく、比較的長期的な視野に立った

将来的な姿としての、あるべきポジション、目指す場所

だと思うんですね。
かたや商品のポジショニングは、もっとセールス・プロモーション的な、例えば、

今、競合の弱いところを狙ってぶつける

という様な、もっと旬的な性質の強いものだというわけです。
最近耳にする個人ブランディングなんかは、考え方としては本来、
企業ブランディング的なものですよね? それをハッキリとさせた上で、
自分をどう売っていくのか? という戦略が来るのではないかと。
自分が基本的にどうありたいのかを明確にしないまま、
自分をどう売るか?ばかりを考えたら、それは極論

今"売れたら何でもいい

ってことになります。

それは、ブランディングじゃないですよね。



7月 16, 2010

経験から得た"勘"を説明できる?

前回の話では、ああ書きましたが、実際は、どこの業界、
なんの職種とも同様に、ただ単に縄張り意識から専門外の人に対し、

「素人の癖に、生意気言うな!」
「コードも書けないやつが口だすな!」
「いいから先ず自分の仕事をしろ!」

などなど、

排他的に意見やアイデアを撥ね付けるだけ

の人も多くいることは事実ですよね。で、実際そうなのか、それとも

専門家としての判断の結果が、 言葉が足りずそうなっただけ?

なのか、判断しづらいところもあります。

現在50代半ばとなる私の昔の師匠も、当時、私のアイデアやデザインに
ダメ出ししかくれませんでしたが、理由らしい理由を言ってもらった記憶もありません。
ま、徒弟制度みたいなもんですしね。

「教えてもらうんじゃなくて盗め」

と、よく言われましたね。
でも、その場では理解出来ず、それこそ師匠の
"個人的な気分や好き嫌い"みたいなもので言ってるのでは?と疑がったり(笑)。

だいたい、ちょっと時間をおいてからですね、
ダメ出しの理由がわかった(と思えた)のは。
ま、いろいろな要素が関係しますからね、意外と何かを創っている本人って、
ある偏った視座からしか それを見れていないってことになりがちですからね。

とまあ、私もそんな中で育ったわけで、

「私たちの仕事なんて、そう言うもんだ」

って考えは正直ありました。結局、最終的に視覚情報として発信するものであれば、
受け手に与える効果や引き出す反応をどれだけ制御出来るかは、最終的な全体としての
見え方に大きくかかっています。

パーツとしては素晴らしいアイデアでも、統合体になった時に不自然で
違和感の出るものであれば 全体の調和を乱し、伝えたかったメッセージや印象を逆に
弱めてしまうものも有ります。

媒体によって、そのメッセージに接触する場所によってと同様に、
ほんのちょっとしたディテールやテクスチャーによって、
受け手が情報を受け取る時のムードは全然違うものになります。
そのことにより、同じ文字情報が発信されていても、 受け取り方は微妙に違ったものに
なって来るわけなんですが、それらを意図的に作り出す作業の方は、経験から来る
感覚や勘に かなり大きく依存している部分もありますからね。

でも、上記の様な種類の人たちもいる中、

自分たちの専門性を社会的にきちんと理解してもらう

ためには、その、

感覚的や経験によった、勘による判断の部分も、
どうにかして説明していかなければならない

のかもしれませんね、ま、難しいんですねぇ。

7月 14, 2010

ディレクターって何?

前回"クリエイティブ"っていう言葉に関して 私の思っていることを書いたんですが、
"創造"という意味での"クリエイティビティ"は 職種に関係無く、
すべての人が持っているものだし、それは色々な場面で発揮するべきものですよね?

それは皆さんも同じように思ってることだと思います。

ですが、誰が使い始めたのやら、"クリエイティブ"という言葉には、
広告制作に関する、その制作部門や表現のことを指す意味もあります。
そのせいか「誰もがクリエイティブ!」ってことを、
「デザインやコピーなんて誰にでもできる」みたいに思っちゃってる人も
いるのかなぁ?って感じなんですよね・・・。

もちろん作るのは構わないし、表現に関するアイデアだって、
どんどん出してもらってOKです。

当然、それが良ければ採用されるべきですし。
ただ、それを採用するのか却下するのか?は、ディレクターが決めることです。

それは好き嫌いや、個人の勝手な思い込みで決めるわけにいきません。
ましてやプロが作ったのか素人が作ったのかで 判断しているわけでもありません。
表現っていうのは、単なるヴィジュアルのアイデアやデザイン、奇麗な、あるいは
気の利いた言葉を作ることを指すわけじゃなく、細部のディテールや質感、色、
配置された要素のバランス、ちょっとしたニュアンスの全体への影響など、それらが、

伝えたいと考えている"メッセージ"を、どのようにコミュニケーションするのか?

と、いうことを計算しながら作っているわけです。

「そんな細かい部分なんて、見る人には関係無いよ」
「そんなの誰もわからない、制作者の自己満足」なんて言う人もいます。
しかし、即効性のあるタイプ後からじんわり伝わるタイプと、
種類はいろいろあるにしても、その考え方の基本は、

正しく計算された表現は、正しく受け手に伝わる

というところにあります。だからこそ私たち制作者は、受け手に正しく伝わるよう、
いつも研究・努力しているわけです。
誰よりも多く、そのことに時間を費やして過ごしているんです。

ま、そういうわけで、その最終的な判断に責任をもつディレクターが、
デザイナーやコピーライターなど制作者出身者が多いんですね。

コミュニケーションの"専門家"として判断に関わっている

ってわけです。
それは古くさい縦割りの体制なんかではないし、別に誰かのクリエイティビティ、
つまりは創造性や、 発言の自由を妨害しているわけでもありません。
そして部外者に対して排他的に接しているわけでもないんです。

それから得られるであろう効果を 最大限コントロールすべく、
できる限り適切な表現を作り出す

ということを、しようとしているだけの話なんですね。

7月 11, 2010

クリエイティブって?

「すでに多くの人が、ある特定の意味で使っている言葉を、
へそ曲がりみたいにグチグチ言ってもしょうがない」
というのはわかってるんですが、

そこに自分の"もの"の見方って出るもんですよね。

で、何についてかというと、

 "クリエイティブ"

私が会社で所属しているのも"クリエイティブ"部ですし、
肩書き自体も"クリエイティブ"・ディレクター。これは制作部、そして制作の監督の意味。
あと"表現されたもの"、いわゆるデザインやコピーなどのことも指して使われてます。

でも、"クリエイティブ"の本来の意味って"創造"ですよね?
そういう意味では、デザインやコピーライティングだけじゃなく、
例えば企画だって"創造"力は必要だし、いわゆる

"アイデア"を必要とするものは、すべて "クリエイティブ"なものでは?

って思うんですけどね。 で、考えたんですけど、

「表現には、ジャンプが必要!」

っていう、まあ、よく言われる言葉があるんですが、その

"ジャンプ"のイメージから、 "表現"を"クリエイティブ"って言うようになったのか?

と思ったり。 ジャンプって言うのは・・・
まぁ、簡単に言っちゃうと、"月並みで普通なもので終わらすのではなく、
いわゆる、ひねりの効いた面白いものにする"ってこと。
でも、この"ジャンプ"、私の考えているものと周りで話されているものが、
なんとなく違う様な気がして、もやもやとしていた部分だったんです。

私が違和感を感じる"ジャンプ"の使われ方から受ける印象は、 なんというか

"マジック"みたいなもの?

想像の翼を羽ばたかせて、突拍子もない何かが加わってできる、
入れ物がぶちこわされちゃってるイメージなんですけど、 僕が考えてる"ジャンプ"は、
ちょっと違う感じがしてたんです。 で、その答えのヒントを、
前回書いたムナーリのデザインとヴィジュアル・コミュニケーション
※2006年12月 みすず書房 に見つけたと。 それは、

"デザイナーは、予期企画設計をするにあたり、アーティスティックで、 リリック(感情表現された)で、ファンタスティックなクリエイティビティ は無益と知っている。 なぜならそんなことをすれば、先に検証した限界すべてにぶつかるからだ、 デザイナーは丹念に収集したデータが生み出しつつあるものを はみ出す様なことを考えるべきではない。 彼が想像力を働かせるのは、集められた要素の統合においてである。 この統合体は、すべての構成要素がもっともうまく融合したものへと 到達せねばならないだろう・・・"

という、その本の中でも一番最後にある箇所。
この文から、自分の考えている"ジャンプ"というものが、

それまでに集められた多くの要素(情報)の 組み立て方の"差"

だと思っていたんだってことを認識できたわけです。どうりで話が合わないわけですね。

だって、そうだとすると、そもそもジャンプ"自体が 表現活動に特有の
ものではないってことですもんね。
だから、表現という意味での"クリエイティブ"が、例え "ジャンプ"から連想された
使い方だとしても、やっぱりおかしいと。どっちにしても、それは

"表現"の周辺だけに使われるべきものじゃない

ってわけですよね。


7月 09, 2010

伝えるということ

“日々、ぼんやりと考えていることを 整理し直すことで、
自分にとっての 課題を少しでも明確にし、
解決に向けた思考ができるように“そんな気持ちで、これを書いてます。

まさに自分自身の勉強のため。

でも、ここに書くことで読んでくださる方にとっても、
「それぞれの課題の解決に繋がるヒントになったり、はっきりしていなかった問題を
顕在化させるぐらいの 役には立てたらいいな」とは、いつも思っています。
なかなか、そこまでのものになりませんけどね。

ま、そんななので、「教壇などに立ち、生徒に向かって何かを教えたり、
伝えたりという仕事をしている人は、ホント凄いな」と、常に思って いるのですが、
先日たまたま、グラフィック・デザイナーである ブルーノ・ムナーリ氏が、
米ハーバード大学において、 芸術選考ではない学生に対し行なった授業の講義録である、
デザインとヴィジュアル・コミュニケーション※2006年12月 みすず書房 という本を
読む機会がありました。

その中では、ヴィジュアル・コミュニケーションを、一旦バラバラに分解し、
その形成の原理を解明しているわけなんですが、同時にムナーリ氏の考える

デザインと芸術の違い、デザイナーとアーティストの視点や考え方の違い

が、ぽつぽつと現れていて、それもまた面白かったです。
特にその中の1つに、私の中で今まで

モヤモヤし、しっくり来ていなかったことに対し
答を出すためのヒントと思える所をみつけたり

して、いろんな意味で参考になる本でした。
ま、その“自分のもやもやに対する答え”については、次回改めて。




6月 29, 2010

最終的にどこに行きたいのか?

広告など、企業が何らかのメッセージを 発信する場合、
受け取って欲しい人が誰で、どんな人かというのはもちろんですが、

何のために発信されるのか? 誰のために発信されるのか?

といった、ゴール、つまり“目的”や“目標”も同じように大切です。

「そんなの当たり前じゃない」

って思うかもしれません。
でも、一見当たり前のこのことが、 普段意外と見失われがちだったりするんです。

例えば、既に日常の仕事としてルーティン化されてしまっているもの。
人って、そういうものには、あまり疑問を抱かなくなりますよね。
定期的に繰り返してやっているうちに、いつの間にか元々あった、
そのメッセージを発信する本来の目的が忘れられちゃったり? 冷静に考えてみると、

「なんで私たちは“今”この媒体を使って、このメッセージを発信しているんだろう?」

てことも有るかもしれませんよね。
そういう意味でも、当たり前になっていること、普通だと思っていることは、
もう一度、見直した方がいいのかもしれませんね。

ちなみに、ここで言っている”ゴール“っていうのは、
単に発信するものの(そのコミュニケーションにおける) “ゴール”(期待する結果)
じゃなくて、お客さんの

ビジネスにおける“ゴール”(目標・目標)

って意味です。 私たちは、お客さんの設定する、その“ゴール”にたどり着くための
方法を、 戦略・デザイン・コピー、そして媒体で提案しなければなりません。

それって、お客さんが設定しようとしている(希望している)“ゴール”が、
ちゃんと見えていて、その意図をちゃんと理解出来ていて初めてできる話ですよね?

さて、みなさんは、その目的、誰のために、何のために発信するのかを、

本当にたどり着きたい“ゴール”

を、ちゃんと把握できていますか? 見失わないようにできていますか?

6月 22, 2010

ということで、反省

とにかく、すごくカンタンに。誰にでもわかるように!
と思いながら、 このブログを書いていた つもりだったんですが、
4ヵ月たって冷静に見直すと 「ぜんぜんダメ」って感じですね。

内輪でしかわからない言葉を使っていたり、
内輪でさえわからない自分だけの思いを前提にしていたり・・・。

いや、ていうか、そもそも話しが抽象的過ぎ?とかね。
ま、いっぺんに上手くなるとも思えないけど、もっと努力しないとですねぇ。

同意してはもらえなくてもね、せめて ”何が言いたかったのか”ぐらいは 伝わらないと、
まったく意味ないですもんね。


6月 13, 2010

"主役"は誰?それは何故?

企業が発信するメッセージの場合、その本質的な語り手は
たいてい、発信者である企業自身となります。ですが、

「そのメッセージの“主役”は?」

となるとどうでしょう?ここで言う“主役”とは、

メッセージが誰(何)を中心にして語られてるか?

と言うことですが、それは必ずしも発信者に限ぎられたことではありませんよね。
”主役”が誰か?が、"なんで"大切なのか? 前回紹介させてもらった、
ネオ・デジタルネイティブの誕生(※2010年3月 ダイヤモンド社 )という本では、

”急激な社会環境の変化は、その中で育った各世代の考え方や態度を大きく
違うものにしている”という見方をしています。例えばその中で、

今の若い世代は、“暑苦しく自分たちの世界観や価値観を押し付ける
コミュニケーション"に否定的

になりつつあり、今後は更にその傾向が強くなるのでは?という
推測がされている箇所があります。また、彼らがツイッターを受け入れたのは、
その“弛い繋がり”を許容する文化に対する 心地良さもあるのでは?とも。

そのことを前提とすると当然、そのような世代をターゲットに、何かをメッセージする
場合、発信者側が世界観や価値観を一方的に押し付けて来るように感じられがちな、

企業や商品など、発信者自身が“主役”となる
コミュニケーションのスタイルには注意が必要

ということになります。

また、それは特定の世代だけがということではなく、時代の変化や生活環境は、
すべての生活者に多少なりともなんらかの影響を与えているはずですよね。

特定の世代の存在は、その時代のムードの極端な表れ、
象徴されたもの だとも言えるかも知れません。 そのせいか最近では
「メッセージを受け取る人が”主役”となるような」コミュニケーションも
増えて来ているように思います。

上記のことからいえば、それは正しい考え方ですよね。
しかし、カタチ上はメッセージを受け取る人が"主役"になっていても、
メッセージの中身自体はどうでしょう?

”主役"を受け取る側にするだけでは問題は解決しません。
”主役”が誰か?が大切なのは、ターゲットや時代背景を考慮して、

どういうタイプのコミュニケーションをするか?

ですよね? 本当にあなたのメッセージは、
届けたい人にちゃんと受け入れられているでしょうか?



6月 09, 2010

伝わらなければ意味が無い

社会環境の変化、特に

インターネットによる生活環境の変化

が、急速に進んだことにより、
変化の中で育ってきた各世代の間に、

従来のギャップよりも更に大きな、いろいろな種類の“差”を生み出している

と、想像することは特に難くないですよね。育った環境が違えば、それは
ライフスタイルだけではなく、物事に対する考え方やスタンス、好むことの傾向
みたいなものにも当然影響があっておかしくないですもんね。

まぁ、細かいことを言ってしまうと“それは一人ひとり皆違う”ということになりますし、
それも忘れてはいけないことなんですが、それぞれの世代での、

いわゆるムードみたいなもの

からくるそれらの違いは、それでもやはり感じられます。

そのことは、企業のコミュニケーション戦略にとっても、前提としてしっかり
捉えておかなければいけない要素の1つということは言うまでもありません。

前にも“適切なタッチポイント、メディア、表現で、一貫したメッセージで”などと
書きましたが、利用するツールやメディア、そして企業側における
ブランド・プロミス (つまりそのブランドが顧客に対して約束すること)などが
大切であるのと同様に、ブランド・イメージを有する顧客側のそういう特性、つまり

受け取る側の"取りかた""感じかた"の傾向を、きちっと分析し、
把握しておかなければ、“適切”なコミュニケーションなんてとれない

ですもんね。 PCとインターネットの普及の時期に始まり、携帯電話が
無くてはならないアイテムにまでなってしまった現在の日本人を、
76、86、96という世代にわけて考察した
ネオ・デジタルネイティブの誕生―日本独自の進化を遂げるネット世代

※2010年3月 ダイヤモンド社 )は、
これからの企業コミュニケーションを考えるのには勿論ですが、
個人の日常においてのコミュニケーション方法や態度についても、
再度考え直させられる

そういう貴重な機会を与えてくれた本でした。




6月 06, 2010

耳を傾けてもらう

私たちは、お客さんの課題に応えようと「媒体はこうなのでは?」
「思い切ってここまでやらないと意味が無い」
「むしろ発信しなければならないのはこっちの方」等など、
常に様々な提案をしています。 が、

提案が、手放し状態で採用されるなんてことは、まず、ほとんどありません。
逆に大きなお世話と思われたりする場合も?
ましてや今まで、おつきあいの無かったところへ新規で飛び込む場合などは顕著。

当然、提案内容自体が"お客さんの課題や予算にマッチしている" というのは
大前提なのですが、同じ様な提案をしているにも関わらず、提案者の違いだけで、
その受け取られ方がまったく変わるというような場合も多々あります。それには、

”関係”や“信頼感”

も、大きく影響しているからですよね。

同じ様に、企業が何かメッセージを発信したり提案したりするときには、
それを受けとる側の顧客も似た様なプロセスで判断をしようとするんじゃ
ないでしょうか。であれば、それも当然、
両者の“関係”や“信頼”によって大きく変わってしまいますよね?
そこで、自分が業者や協力会社に対するとき、

どういう面からそのような判断を下しているか

を考えてみてください。それは会社や人の“名前”ですか?
担当者の“話し方”“服装や雰囲気”提案された“場所”“タイミング”“接触頻度”それとも、
それまでの“実積”単に見積りの“金額”? これらの何に対して、どんなところに
信頼感を持ち耳を傾ける気に成るのでしょう? もちろん”すべて”じゃないでしょうか。

それら”すべて”から伝わって来るもの、あきらかになるもの

じゃないですか? ブランディングは簡単に言ってしまえば、
その基調となるものをきちんと明文化した上で、
それを各活動によって実現し構築しようというものですよね。

そして企業の全ての活動が、その指針に基づいて行われることで、
その価値を高めようと、信頼してもらいメッセージに耳を傾けてもらえるように
なろうとしているわけです。 ○○でブランディングしましょう!と言う場合、その前に

そのブランドが約束することやポジショニングが、きちっと決まっている

のでなければ、何をやったところで一貫した活動にはならないですもんね?



6月 04, 2010

ケース・スタディ

世の中には広告や販促など、企業コミュニケーション活動に関する

”ケース・スタディ”

が溢れてますよね。でも、それって

本当に正しく利用されてるのかな?」

って思ってしまう事が。なんか最後に形となった

”表現”や“企画”ばかりに 目が向けられている?

って感じで・・・。 私たちは日々、お客さんの抱える“課題”に対して、
コミュニケーション活動によって解決出来る部分を模索しています。

それはもちろん、コミュニケーション分野以外の活動とリンクしていなければならず、
それらの活動すべての相乗効果によって課題そのものの解決へと向かうというわけ
なんですけどね。

でも、突然お客さんのところへ行って、
「御社のコミュニケーション活動上の課題をお聞かせ下さいますか?」
なんて上っ面なことを聞いても、大概答なんて返ってこないですよね。
「それがわかってたら、とっくに何かやってるよ!」って 言われちゃっても
しょうがない感じですかね。

やっぱりプロだと自称する以上、私たちがお客さんである企業の
コミュニケーション活動の中で、機能していない部分や非効率的になっていると
思われる部分を探しだし、提示しなければならないですからね。

実は、ケース・スタディこそ、そういう

課題”そのものを探し出すための一手段

として、とても有効なものだ、ということなのです。

そういう視点でケース・スタディを研究することで、お客さんの
”コミュニケーション上の課題”を見つけることが出来るようになると。
そして、だからこそ

単なる二番煎じなんかではない、本当のソリューション、
適切なコミュニケーション活動の提案が出来る

のではと、思うわけです。


6月 02, 2010

横文字

私たちのビジネスにおいても”横文字”は、次から次へと入ってきます。
そしてそれらは、早い者勝ちと言わんばかりに?すぐにビジネスで使われ始めます。

でも、お客さんを含め他の業界の人たちには
「よくわからない」とか、「専門用語ばっかり」とか?
言われてしまったりすることもしばしば。

”横文字"ってことでいうと、そもそも私たちの仕事自体が欧米から入って来たものだし、
多いのもしょうがないといえばしょうがないと言うか・・・。
まぁ、言葉というより、新しい考え方とか概念みたいなもんですし、
ぴったりの日本語に置き換えるのも、まぁ大変ですよね? 今更“デザイン”を
“意匠”や“設計”などと呼び直したところで、新たな誤解を生むのが関の山?
わかりやすくなるわけでもなさそうです。 問題は

”横文字だから”わかりづらいんじゃなく
概念とか意味がよく理解されずに使われちゃってるから”

ってことですよね。
それは単に言葉ってだけじゃなく、例えばデザインのスタイルみたいなものでも

”その理由が置き去りにされて、上辺のスタイルだけが採用されちゃってる”

って場合もあるように思っちゃいます。
確かにスタイル的には流行のものではあるのですが、そのスタイルの本来の
“考え方”(なぜ、それが生まれたのか?)とか、そのスタイルから得られるであろうと
期待される“効果”をちゃんと考えた上で採り入れられてるのかなあ?って
思ってしまうものがあるということなんですがね。で、結局このデザインで

何か伝えたかったの?

みたいな。 どんなスタイルを用いるにしても、理由があるはずですし、
期待される効果も想定されてるはずですよね。
そして、それらはクライアントの課題に対しての"解決策"になってないと。

話を戻して、"横文字"についてなんですけど、その"横文字"、
つまりは新しい考え方・スタイル・手法などが、

”何のために生まれたのか?""どんな効果が期待されているのか?”

ということを意識して、使ったり採り入れなければ、
それはまったく相手に伝わらない意味の無い、
使い捨ての流行のものみたいになっちゃいますよね?


5月 30, 2010

“Affordable”イメージと “Cheap”なイメージ

「“お得感”を全面に出したい!」

お客さんが、そう言う時って大体、チラシの“大特価!”みたいな
イメージで オーダーしている。って事が多いですかね

実際にそれで良い、というか、それが正解という時も
勿論あるのですが「そうじゃないですよ」って時も。

街で看板を見たり広告を見たりしても、そう感じることは多々あります。
何が違うって、“安い”っていうのと“値頃”っていうのが ごっちゃになってるって
言うんですかね。 本来はブランド的にもポジショニング的にも

Affordable(値頃)”イメージじゃなきゃいけないのに
Cheap(チープ)”になっちゃってる

てことなんです。 “Cheap(チープ)”って言うのは「品質も良くはない」って
イメージがつきがちなんですが。 せっかくロゴとか
VI(ビジュアル・アイデンティティ)とか、お金をかけて作っても、
同時に日々同じようにお金をかけてそのイメージを壊してたらホント意味ないし
勿体ないですよね?

本当は、どんなお得感が出したいのか。

もう一度考えてみてはどうでしょうかね?


5月 15, 2010

表現においてのクオリティ

ずば抜けたアイデア。飛び抜けた企画。
いつか自分もそういう広告や販促のアイデアを出したり企画を立て
世間をあっと言わせたい。ものすごいヒットを飛ばしたい。
まぁ、ほとんどの人が、そう思ってますよね。
でも、意外と普通のことを普通にやるっていうのが結構難しかったり。

実際、普通にさえ出来ていないってのは街中に溢れてますからね。
普通に出来ただけでかなり高得点になったりするんですね。

ま、それじゃあレベル低いんでね、もうちょっと高いところを見るってことにして、
私たちの仕事で考えてみました。 よく

素晴らしいアイデアは既存の何かと何かの誰も気付かなかった組合せから生まれる”

なんて言われますよね、ホントそうだと思います。
もっと言うと普通のことがちゃんと出来ていて、プラス、

何か新しいことが少しだけ加わっているだけで、凄いアイデアにガラっと変わったり

しますしね。

でも、デザインやコピーなんかの、いわゆる表現ってものにそれを置き換えると、
実は、あまり当てはまらないのかなぁって思うんですね。
下手すると蛇足によって単にちぐはぐしたもの、あるいは全然ターゲットに伝わらない
ものになっちゃたりもしますし。

そもそも“飛び抜けた表現”っていうのは表現のレベルでごにょごにょやっただけで
生まれる様なもんじゃないと思うんですよ。
その前段階の、方向性やコンセプトの出来で、ほぼ決まっちゃうんですよね。
そういう意味で、それらを導き出す基になる広告計画や販促計画の段階で
知らず知らずにその可能性を削ぎ落としちゃってる場合もあったり。
基の部分が今イチだったら、

表現だけでゴニョゴニョ頑張ったところでそれは
“なんとか取り繕う”“見た目で誤摩化す”ってこと

にしか、ならないわけで当然、大して効果なんて生まれないでしょ?
いくら優秀なクリエイター使ったて、そういう作業をさせちゃうん

勿体無い

ですよね。
まぁ、ちがう職種の人からみたら面倒臭いところもあるかもしれないんですけど、

できるだけ初期レベルの企画段階からクリエイターが入るのが、
コミュニケーションの精度を上げる近道

だったりするんですけどね。


5月 10, 2010

イノベーションって人を驚かしちゃいますけど・・・

イノベーションは、マーケティングリサーチからは生まれない。

人を驚かそうとしてるのに、
あらかじめ「君は何をされたら驚く?」って聞いてまわる人がいる?

って、最近読んだ本
*2009年12月 アチーブメントシュッパン: 
ゴー ルは偶然の産物ではない~FCバルセロナ流世界最強マネジメント~
に書いてありました。

まったくですよね。

ータはあくまでも過去のもの。そのまま現在に適用なんか出来ないのは、
みんな気付いていると思うんだけど。それでも、いざ何かを決めるって時になると、
ほとんど必ずデータが必要になるんですよね。
というか、人間って、ほとんどの場合において、価格かデータ(過去の事例とか?)
でしか何かを決められないんじゃないか?って思っちゃうくらい。

だから、それを逆手に取って、自分たちに都合いい読み方をしたデータを説得の
材料に使って採決者を騙したり惑わしたりする提案が世の中に溢れるわけで、
ホントそういうのって、がっかりしちゃいますね。

まぁ、広告を出したいと言っておいて、「あまり目立つのはちょっと」とか?
いわれたりもするし。何に付けても

控えめが良しとされ気味の社会ですからね、

コミュニケーションにおいてもサービスそのものにおいても“イノベーション”のような、

世間をビックリさせるものなんて初めから必要としてないのかな?実は。

口では言ってみてるだけで。
まぁ、そういうことなら、なんでもデータでこと足りますけどね。


5月 01, 2010

対価は何か?

フリーやフリミアムが、どうしたこうしたと言われてますよね。
特に、最近のWeb周辺の例をあげて 「これからの時代は〜」とか、
「デジタル・ネイティブの世代は〜」とかね?ま、TVやラジオのコンテンツも
エンドユーザーにとっては昔からタダなんですけどね。

ま、とにかく、様々な分析や未来の予測が行われているようで、
デジタルの世界の話ではありますが、極端なものだと、
「今、安売り・値下げ合戦をやっているもの(商品やサービス)は、
いずれ”タダ“になるだろう」みたいなものまで? 基本はデジタルではないのですが、
私たちも何となくその影響を受けている様な。

お金を払ってもらいづらい、ソフトの部分、つまりアイデアやデザイン
クリエイティブなんかの料金を、別なもの、あるいは別な手法で支払ってもらわないと
生きて行けなくなる?って不安も。

だって、私たちの仕事に対する世間の?(少なくても私の周りの人の)見方って、
”いちユーザー”が、利用するWebサービスに対して持っている感覚に近い感じかな?
って思っちゃうこと多いんだもん。

「え?それってお金かかるの?」

的な?で、もし本当に、そういうソフトの部分を無料で提供しなくちゃならない時代が
来るとすると、メディアや印刷の旗色が良くない今、私たちは代わりになる何か、
お金を稼ぐための何か別のものを考えなきゃいけない!ってことになるんですかね?

でも、”価値”っていうことでいうと、はたして人間が、空気や水とは違って、
同じ人類の作り出したものに対して、そういう風に「タダだけど価値がある」なんて
考えることができるのかなぁ?とも思っちゃいます。

例えばツイッターにしても、確かにユーザーは、お金は払っていないけど、
それに価値を感じている人は、実は

料金を払うのと同等、あるいはそれ以上の“何か”を
ちゃんと支払っているんじゃないの?

ってことです。
それは、自分の持っている”情報”だったり”ノウハウ”だったり、 それを得るための、
あるいは単純にソーシャルメデイアに向かっている ”時間”だったりなんですが。

要は単純に”タダ”と言うわけじゃないのでは?とね。

人間は価値のあると思うものに対してお金を払うのではなく、お金を払う からこそ、
それに価値があるんだと思うものだって話もあるし、お金じゃなくても

自分が対価として支払うものがあるからこそ、
それに価値を認めるんじゃないですかね?

つまり、逆に、何かそのものに価値を認めさせたいと思ったら、
"その周辺や、代わりをタダにする"というのは、あったとしても、
そのものをタダで提供するなんてあり得ないってことじゃないかとね。

直接、それに見合った料金を払ってもらわず、別な何かで儲けるシステムを
採用するのであれば、そのサービス自体には、お金以外のもので、ちゃんと対価を
支払ってもらうようにしないと、それに対する価値なんて いつまでたっても認めて
もらえない。ってことですよね? それは、何かの労力かもしれないですし、
時間かもしれないですし、 まぁ、別な何かかもしれませんけど。
選んでもらう様にしないとダメなわけです。


4月 29, 2010

メッセージ

自分が意見を言う際に、あまり考えず?なんでしょうかね、内容に関わらず、
とりあえず「いや!」という言葉から話しに入る人がいるんですけれど、
まぁ、当然なんですが、あれって良くないですよね、やっぱり。
ええ、前に発言した人の言葉を打ち消す

「いや、そうじゃなくて」の「いや!」

です。
まぁ、そういう“話し方”みたいな事に関しては、書籍を始め、
いろいろなところで書かれていますし、大概の人が頭では、わかっているんだと
思うんですけど・・・。これが、結構多いんですね。

なんででしょう、自己顕示欲?みたいなものが無意識にそうさせちゃうんでしょうかね。
それでも、本当にその前の意見に対し反対のことを言う時ならまだしも、ほとんど
同じ内容のことを言っているにもかかわらず「いや!」から入っていたり
している時も結構あるし。
聞いてる方は混乱するし、話しは前に進まないし。僕みたいな性格だと
かなり苛々しちゃいます。

それに、自分の意見に対して「いや」って言われた方は、その瞬間身構えるから、
普通に聞かされていれば賛同出来る様なことにも意固地になって反発しだしたり
しますしね。

まぁ、良いことなし?

言いたい内容はハッキリ相手に伝わらないと意味が無いのですが、
逆にはっきり言っても話し方が悪くて伝わらないってパターンですね。
そして、そのパターンを怖がるあまり、話しを濁し過ぎて、結局何が言いたいんだか
わからなくなってしまっているような人も、これまた沢山いますね。

企業のコミュニケーションに関しては後者の方が多い?って感じます。
ハッキリ言うのが悪じゃなくて、ヴィジュアルも含めた全体の

メッセージが正しく相手に伝わっていない

というのが問題なんですけどね。


4月 08, 2010

ソフトを売る?

悲しいことに、小さいものから大きいものまで、
アイデアの盗用はあとをたちませんよね。

あ、ここで言うアイデアっていうのは・・・、
とりあえず“形になったアイデア”ってことにしておきますけど。

“どっかで見たことある広告”から始まって、“コンペでは落ちたのに、実施の内容は
自分達が提案したものそのまんま”や、“いいとこどり”などなど。
「本当にそれで何ともないのかな?恥ずかしくないのかな?」アイデアを売り物にする
人間だったら、誰もがみんな思うことですよね。

と、いうことは、アイデアを平気で盗む人たち自身はアイデアを売り物にしていない
ってことになる?でも、アイデアを売り物にしてない人って???そもそも、そんなこと
あるのか?って思っちゃったりもしますが、ま、そのことはまた別の機会にでも
考えることにします。私も昔から

日本の社会はアイデアにお金を払うという感覚が恐ろしく薄い社会だなぁ」

と、悲しんだり憤ったりしてきたわけですが(海外は良く知りませんけど)、
そんな世の中だから、本人は、その感覚もなく平気でアイデアを盗んだり
するんですかね?

でも、てことは、仮にAさんの提案したアイデアが盗まれたとしたら、
盗んだ人や企業自身が考えたアイデアや、Aさん以外の他者から提案された
アイデアの中には、Aさんのものに代わる、あるいは、それよりも、もっと良いと
思われるものが無かったということだし、もっというと、Aさんの

アイデアに“価値”を感じているから盗む

わけですよね?価値を認めているってことでしょ? なんで、その価値を認めるものを、
おまけ的な“サービス”で受け取ろうとしたり、盗んだりするんですかねぇ?
過去にそうやって来たから?そういう慣習だから? でも、そうやって
お金を払おうとしない方だって他人事じゃなく、これからは自分たち自身が、
もっともっとアイデアそのものを“売って”いくことが出来ないと生き残って
いけなくなるなる時代になるんじゃないのかなぁ?って思うんですけどね。


3月 12, 2010

仕事としてのクリエイティブ?

広告や販促などの商業活動の中でクリエイテイブに関わっていると、
いつも考えさせられるのが“お金”の話。
「カネくい虫だ」とか、「ビジネス感覚がない」だとか、まぁ、
クリエーターは普段から、いろいろ言われるわけなんだけど、
無意味に「金かけりゃいい」なんて思っているクリエーターって
そんないないよって思いたいんですけどね。

ま、半分正しいし、半分誤解されてるのかな?って感じですかね。
単に、お客さんの要望に対する、そのままの結果って感じで、要望されている内容と
提示されてる予算との間に、そもそも開きがあったってパターンはあるんですよね。

その場合は、テキトーにというか、考えなしに?「わかりました!」とか言って
安請け合いするのが悪いんだけど、誠意を持ってやるんならさ、初めからある程度
ちゃんと説明するべきでしょ?それこそビジネスの基本としてね。

実際「え?」って感じのオーダーは、有りますしね、残念ながら。
それこそ“表現とかクリエイテイブとかを単なる装飾にしか考えてない”って感じのやつ
なんですけどね。

もう一方で、例えば「予算とか制限がちらつくとアイデアを出すのに障壁になる」って
いうのはあって、だから、あえて最初は予算とか度外視で考え始めたりするんですよね。
それを最終的に現実的なスケールのものに落としこむ作業が
出来ず(技術の問題とか、そのアイデアに固執しちゃって?また、
細部のディテールを譲ることができず。などなど)
予算を大幅にオーバーしたままのものが出て来ちゃうってパターンもありますかね。

基本的に、初めに予算を提示されていて「その内でやってくれ」と
言われているんであれば、“アイデアをその予算のスケールに収める”というのは
当然必要なものですよね。

でも、一度出たアイデアをその予算に合わせて落とし込むって場合、そのアイデアの
本質の部分だけ?を残し、表現的な部分は殆ど考え直さないといけないってことが
多いんですよね。そりゃ、まぁ、作る方にとっては切り替えも大変になるわけですが。

いくら“お客さんの事を考えた上で”「このアイデアが最適だ」と信じていたとしても、
予算をオーバーしすぎていたら、それはあくまでオプションでの提案ってことに
なりますよね。
その限られた予算の中で効果が出るアイデアを出すのもクリエイテイブだし。

50万しか予算が無い時に、普通にやったら150万かかるアイデアを、単に質を落として
作ったら、そりゃ安っぽい二流のものになるだろうし、効果も期待出来ないですよね。
50万なら50万のクラスで最高のものを作った方が、あきらかに良いものが出来るし、
結果に繋がるはずだと思うんですけどね。

ま、そこら辺は、本当は発注者側にも分ってもらいたいところではあるんですが。
こんな経済状況だからね、黙って「はいはい」聞くところは多いと思うんですけど、
それは本来あんまり誠意のある対応とは思えませんよね。 実際は、

無闇にあれもこれもと欲を出すことで、その分どんどん質が落ちている

はずなんですからね。


3月 08, 2010

ぞれぞれの立ち位置からの“全体像”

前回の最後に書いた

その“専門家”が、どういう視点から全体を捉えているか?」

が、大切だということについて補足します。

ものは、それを観察する人が“どの位置から見ているか?”によって
大きく違って見えることがあります。同様に何かについて語られるとき、
それは、語っている人間の“立ち位置“によって、少しずつ違っていても当然ですよね。

例えば、同じ広告のことについて話しあっていても、人によって見方や考え方が変わる
わけですが、それは、その人の“立ち位置”というのが関係しているということです。

デザイナーと、コピーライターと、マーケティングのプランナーとで当然違ってくる
ようにですね。 今回は、わかり易くするため、この“立ち位置”を、
今、例として出したように“職種”に置き換えて説明しようと思います。

例えば、今、誰かが“ブランディング”のことについて話しているとします。
それを話している人はどういう職種(立ち位置)にいる人でしょう?
ブランド・コンサルタント?どういう? どういう立ち位置にいる
ブランド・コンサルタントですか? プランナーでしょうか?マーケッターでしょうか?
グラフィックやパッケージ、インテリア等のデザイン系の人でしょうか?それとも
建築設計?インターネットやインタラクティブ系? それとも経営コンサルタント?
“ブランディング”という一つのものも、それぞれの立ち位置から、それぞれ
違った視点で見ているということです。

まぁ、ある程度の規模の会社の場合は、それぞれに専門のスタッフがいて
チームを組んでやっており、細かい話しになると、そのつど担当の人間が出て来るし、
個人あるいは小規模の会社での場合には、社外のスタッフとチームを組み
どうように担当の人間がいるわけです。

つまり、あなたの前にいる“ブランディング全体”について話している
(全体をまとめている)人は、かならず何処に立って全体を見渡した上で話している
というわけですね。で、同じ“ブランディング”という範囲の話だからと言って、

インテリア系の人が語ったWebの話

は“専門家”による話になるんでしょうかね?

プランナー系の人が語ったヴィジュアルやデザインの話

は“専門家”の話になりますかね?
もちろん「まったく参考にならない、いい加減な嘘っぱちだ」などとは言ってませんし、
逆に参考になる事も多くあると思います。ですが、あくまで

”その人の立ち位置から見て”の話

だということを、聞く側は頭の片隅においておく方がいいと思いますよ。
騙されたり、偏った意見を信じ込んで失敗しないためにも。
それは“ブランディング”だけの話じゃなくて、いろんなことについて言えること
なんですけどね。


3月 06, 2010

Who are you?

前のポストで、自分たちが何のプロフェッショナル(“専門家”)かが
大切じゃないか?と書いたんだけど、普段、私の周りでは
“専門性”のウケは、あまり良くないって感じですかね。融通が利かないのだそうで。

「ある専門性に特化すると、幅が狭くなるためニーズが少なくなり、
仕事の受注に障害がある」

と。 その思考の結果、何となくおおざっぱで曖昧に

「何でも出来ます」

と、なるべく競合と差別化しないようにして自分あるいは、自分たちを売る事に
なるんですが、それが正しいとすると、実際に自分あるいは自分たちの専門性を、
本当の意味で拡げないといけないと言うことになりますよね?
ま、本当にそうするのであれば何も問題ないんですけど。

選ぶ方だって、パートナーとしてプロフェッショナル、つまり“専門家”を求めて
いるのだったら、実際に違ったら気付きますよね? でも、
「また新しい人や会社を探したり、仕事の流れを説明し直すのが面倒だから」
「本当に専門性を持った人や会社は高そうだから」「融通が利かなそうだから」
 などなど、そんな理由から惰性でつきあっているってことも有るかもしれません。

でもそれって、もともと

専門家なんか求めていなかったって事?

なんでしょうかね?

ところで、皆さんが仕事でつきあっているパートナーは、みんな“専門家”ですか?
というか、あなたは“専門家”が必要だと思っていますか?
自分が出来ないから「ただそれが“できる人”であれば“専門家”じゃなくても
いいんだけど」って感じ?
でも、自分に無い専門知識や専門技術、能力をその人なり会社なりが持っているから
専門家と組みたいわけですよね?
そういう意味では、何かのオペレーターも専門家ですし、
そのことに、ただ馴れてる人も専門家?
(ま、定義としてちょっと語弊が有るかも知れませんが)

ということで“専門家”にはいろんなレベルの“専門家”がいるって事で考えてみてください。“専門家”じゃない人や会社とつきあうメリットなんて、よっぽどじゃなきゃ無い
って事になりますね。
だってものを買うのに、わざわざ役に立たないもの買わないですよね。

でも、単なる何かのオペレーションの“専門家”が、企画や設計が出来ますかね?
無理矢理やらせたって、時間はかかるし、出来は全然だしで、
まぁ、あまり良い結果は出ないですよね、大概の場合。

代用にも限界があるというわけですよね? 企画や設計を頼むなら企画や
設計の“専門家”を探さなくちゃなりません。当たり前のことなんですけど。

殆どのことに関して同じことが言えるんじゃないですかね? で、もしかしたら、
本当に新しく“専門家”を探す必要が有るのか?から検討しなきゃならないかも
しれませんよね。 今つきあっているパートナーが、本来どんな専門性を持っているのか、
それをちゃんと認識してるかどうかですけど。”専門家”を選ぶ側が、その専門性を
しっかりと把握し、そのつきあい方を、それに適したものに変えるだけで、
仕事は効率も結果も全然変わってくことになりますよね。

いずれにしても「何でも出来る」には気をつけた方がいいかと。
そのパートナーの本来持っている専門性を見えなくしてしまっている可能性も
高いですし“代用”させるために?わざと見えなくしている可能性も有りますからね。

それと、もう一つ。

もし「本当に何でも出来そうだ」と見えたとしても、そのパートナーが、

どういう視点から、“なんでも”(全体)を捉え、どう実行しているのか?

ってことで、“出来る”という言葉の意味も変わって来ると思いますしね。


3月 04, 2010

魔法のキーワード

最近“コミュニケーション・デザイン”という言葉があちらこちらで聞かれます。
なんか、この言葉に対する周囲の反応が、以前の“ブランディング”に対するものと
似ているように感じるんですよね。

どういうことかって言うと、“ブランディング”という言葉が聞かれ始めて
しばらくすると、各広告会社ともいっせいに
“ブランド”“ブランド”と唱え始めたわけなのですが、今回はそれが
“コミュニケーション・デザイン”とに、そのまま変わったっていう感じ?

でも、その殆どは自分たちの売りものを売るためのダシとして使われているようにしか
聞こえないんですよね。ま、そこも“ブランディング”の時と一緒なんですが。

まず“ブランディング”についてですが、どんなに優秀な専門家のいる
ブランドコンサル・ファームに任せてあっても、それで全て解決出来る類のものじゃ
ありませんよね。

ブランドコンサルは、あくまでもコンサルタント。
もちろん実施の部分でも社内教育やヴィジュアル・イメージ
(ロゴやヴィジュアル・アイデンティティ、オフィスやインテリアなど)、
コミュニケーション戦略など、お手伝いをしてはいますが、基本は、
その企業自体が重要性を理解し、主体となって進めなければ意味がないものです。

で、“コミュニケーション・デザイン”なんですけど。要は“ブランディング”の中の
コミュニケーションに関する部分って感じなんですけどね。

まぁ、もともと常に耳新しいキーワードを持ち出してお客さんの興味や焦り?を喚起し、
いろいろと売り込もうとするのはどこの業界にも有るんですけど、
あまりわからないままに、こういう言葉だけを使うもんだから最終的に
自分たちが信頼を失ったりするんですよね。

大きい広告会社なんかは、
「◯◯って一口に言ってもその範囲はとてつもなく広いし、やらなきゃいけないことも
すごく沢山有るんですよ。ウチに任せていただければ、その個別の課題に対して、
もっとも適切な専門家を集め進行することが出来ますし、なによりも全体を、
お客様の手を煩わすことなく一括管理いたしますので、コンセプトからぶれる事も無く
ゴールへと向かって進めて行く事が出来ますよ」 と。ま、単に
「ウチで仕切らせてくれ」という事なんですけどね、そういう事を言い出すわけです。

となると、そこまで大きくない?力の劣る?会社も
「負けてはいられない」というわけで、

これからはコミュニケーション・デザインだ!」

と、かけ声がかかり、
「ウチも、最近は“コミュニケーション・デザイン”という考え方をとりいれ、
お客様に“総合的に”ご提案し始めているのですが〜」 とね。
ま、言うのは良いんですが、総合的になんか出来る訳も無く、
ただ上っ面をなでただけで終わってしまっていたりで、
そうなるとお客さんの方でも「?」って感じで、段々信用しなくなって来るわけですね。

本当に大切なのは「何でも出来ます!」じゃなくて、例えば
“コミュニケーション・デザイン”なら、その中のどの部分に、
自分たちがプロフェッショナルとして責任を持つのかを明確にすること。

自分たちがなんのプロフェッショナルか?

ってことじゃないですかね。


3月 02, 2010

イメージよりな・・・?

仕事上よく「今回は“イメージ”的なものではなく、もっと直接販売に繋がる〜」
という言葉を、お客さんやお客さんから聞かされたりします。

まぁ、話しの前後から、なんとなく何が言いたいのかはわかるのですが。

にしても曖昧なんですよね。

まず、お客さんが言う“イメージ”って、どういうものを指しているのか?なんですけど、
こっちが、製品なりサービスなり、あるいは企業そのもののブランド育成を意識して
企画、提案したものに対して、そう言われることは多いですよね
(まぁ、ブランディングに関しては最近でこそ少し理解してもらえるようになって来た?
感じですが)。

でも、まぁ、それならまだまし?というか、お客さんによっては、なんというか・・・、見た目がチラシ的なのもの?じゃないと、全て“イメージ”で片付けられてしまうような
(それが、いくら“販促的役割を担わせる広告”だとしてもの話しだけど)。

「奇麗なだけのデザインなんて意味がない」

といったことは、よく聞きますよね。
私は、デザインには基本的に“全て意味(機能)が有る”と思ってますし、
実際にもいつもそういう考え方で制作しています。

そういう意味でこの言葉は正しいとは思うんですど・・・、でも、それって、
どういう意味で言っているのかな?と。その後に続く言葉は?

汚かったらそれ以下じゃないの?

って思っちゃう言い方なんですよね。売る為の販促的役割の“チラシ的な広告”でも、
イメージは当然重要じゃないですか?

ただ単に「◯◯今なら50%OFF!」とか、そういう情報だけで、ブランドそのものを
反映させてない、あるいはブランドに相反するヴィジュアルやコピーで
メッセージを発信し続けていたら? いくら他方お金をかけてブランド育成広告を
うったところで、そのブランドは、そうであって欲しいと願ったようなものにはならず、
強いては、それが原因で競合との競争に負け市場からはじき出されたりということも
あり得るわけです。

つい先日、雑誌で読んだのですが、サムスングループの李健煕(イ・ゴンヒ)
二代目会長は 「機能や品質は各社いずれ横並びになる。製品のデザインこそが企業の
優位性を左右する源となる」 と、製品のデザイン性を重視し、製品の企画・設計の
段階よりマーケティング担当者とともにデザイナーを深く関わらせる体制を
構築したことで、他社と差別化をはかることに成功しブランドを育てたという話しが
出ていました。※週刊 ダイヤモンド 2010年 2/27号 [雑誌] 
ここで言われている“デザイン”は、当然“奇麗なだけのデザイン”なんてレベルの
話じゃなく、「機能や品質は各社いずれ横並びになる」つまり、そこがおさえられて
いるのは当然であり、その上で“デザイン”が差別化をはかる為の重要なものであると
言ってるわけです。

長年サムスンの製品開発プロジェクトに関わって来た関係者の一人は
「日本のメーカーは技術本意なのでそのような体制はありえない」と
言っているそうです。更に、日本は
 「とりあえず“いいもの(信頼性の高い品質の良い製品)”を作れば“売れる”」
という考え方から未だに抜けきれていないとも。
つまり“マーケティングも軽視しされている”ということになるんですかね。
(誤解の無いように言うと、これは技術などの“発見”や“発明”とかの“創造性”に関する
レベルの話しとは別の話しのつもりで言ってます。その件は、また、いつか)

マーケティング(あるいは、その感覚)を無視したデザインなんて、そもそも
あり得ないんだから、ならデザインが軽視されていても当たり前?技術思考のみで
企画された製品に、マーケティングが後付けで登場して、上からデザインの皮を
被せるって事でしょうか?
つまり、デザインは単に製品の“イメージ”の部分って訳ですね。

そうやって出来た製品などに対し、私たちは「さて、どうやって売ろうか?」と
広告などの企画を考えているってことなんです。

でも、その時点からでも、何とかブランドそのものを汲み取ってコミュニケーションに
繋げよう作りだそうと、頑張ってるんですが、決定的な差別化を探し当てるのは
凄く難しいし、なんとか絞り出したものも、お客様の方にしてみれば
ブランディングなんて、もともとが考えていなかったわけだから、
私たちの提案が単なる“イメージ”に見えても、ある意味しょうがないのか?とね、
思ったりもする訳です。

実際に、そのレベルというか、ステージ?からの

ブランド・ビルディング

っていうのも無い訳ではないし、要は意識の問題だと思うんですけどね。


2月 27, 2010

短期・中期・長期、それぞれのアプローチ

“広告”は、媒体特性やターゲットに関する要素を無視して
出稿しても意味が無い。それだけを聞くと至って初歩的なことすぎて、
え?そんな事もクリアー出来てない広告なんてあるの?」って
思っちゃうかもしれませんね。

現在ではソーシャル・メディア関連で、よく

「これは短期的に結果を出す(求める)ものではなく長期的な視野において、
より戦略的な〜」

なんて言われていますが、それは、そもそも“ブランディング”自体がそういうものですし、
私自身は、マスメディアを使った広告も、本来どちらかというと中・長期的な
ブランド育成に適したものであって、短期で“売る”という結果を得るために使う
というのは、それこそ“どんなものにでも当てはまる”というわけにはいかないんじゃ
ないか?思ってます。

以前、私の所属する会社のアドバイザーでもあった、植田正也氏
〔早稲田大学大学院・アジア太平 洋研究センター
「早稲田大学ビジネススクー ル」講師〕が
「日本語の“広告”という言葉には、海外で言うところの
“Advertising(アドヴァタイジング)”、いわゆる、企業広告などを含む
ブランド育成広告という意味合いのものと、
“Sales Promotion(セールス・プロモーション)”的な意味合いの、
いわゆる、短期間で直接的に売る為の種類の広告とが、両方含まれているため
制作側と発注側において混乱が起きやすい」ということを、おっしゃっており、
また、ご自身の著書(少し古いものになりますが)でも書かれていました。
2002年2月 日新報道刊:2005年の広告会社―ニューヨークから東京へ

でも、日本では、中・長期的な視点に立った、ある意味、

投資的な“広告”や“ブランディング”

といったものは、なかなか 理解されず、ほとんどのものが単なる

”イメージ的なアプローチ”

として片付けられてしまうことが多いように感じています。

でも、“イメージ”っていうのは単なる飾りや装飾ではなく、
それはそれで凄く大切なモノなんですけどね(その件はまた別の機会に)。

そんな中、いわゆる“代理店”は、大量に広告のスペースを売ることにだけ専念して
来たように見えるんですよね。売るためには内容なんか後回しって感じで。
「わざわざ嫌がるもん持って行って説明するのも面倒くさいし、

売れるもんも売れなくなったらやだし」って感じ?まぁ、その結果として、
マスメディアにチラシ的ものばかりが溢れる事になったのかなぁ?とも思うわけです、
効く効かない関係なしにね。

実際のところ、私には本当に効果的なものだと思えるのは、
一部だけのように思えますし。

更に、現在の環境の変化を考えると、即、売りに繋げるためのメッセージを発信する
“短期で結果を出すための広告”は、以前よりも、もっと難しいものになって
来ているんじゃないかな?って思うんですよね。

ターゲットにもよりますが、いまどきの、情報に不自由せずに暮らしている消費者が、
そんな一方的な企業からの発信に対して、それほど素直に反応するわけないって
事なんですがね。

まぁ、その結果、

「じゃあ、マスメディア広告なんか大金かけてうつのあほらしいじゃん?」

って事になり、広告の枠は売れなくなるということになると。現状そのもの?

企業自体にお金が無いっていうのは、もちろん有るかもしれませんが
理屈が極端ですよね?

「マスメディアでは、売るための広告はすべて効果がない」
なんて言ってるわけじゃないんです。ただ、ちゃんと考えるべきだと。
その選択肢をちゃんと持つためにも、中長期的な視野でのブランド育成広告の
重要さについては、もっと理解されるべきだと思うんですよね。


2月 24, 2010

これからは◯◯の時代?!

まぁ、前からの話しですけど、広告に対する否定的な意見や言葉は、よく聞きます。
で、その言葉の後に来るのが、だいたい

「これからは◯◯だ!」

PRだった時も有れば、企業Webサイトだった時も有ればと、まぁ、いろいろなんですが、
その「これからは◯◯だ!」というのがどうか?と言うのは、ひとまずおいといて、
そもそも何で広告がもうダメなのか?何をもってダメだと言っているのか?っていうのが
曖昧なままで、言葉だけがあちこちで聞こえるように思うんですよね。

もちろん、きちんと分析して、かぎりなくフェアに発信している人もいますし、
正しく状況を見つめることができている人もいると思うんですが、普段、私が
直接周囲の人から聞く言葉に限って言うと、ただ何となく余り考えなしに
使っているって感じに聞こえます。

まぁ、元々TVやラジオ、新聞、雑誌などの広告スペースをメディアに代わって
販売することから始まった広告代理店というものを中心に大きくなった、
この業界の成り立ち方を踏まえ

「広告はもう終わった」

という事の意味を考えると、まずは

1. “メディア”自体が力を失った

という意味と、また、

2. そのメデイアの特性上、企業側からの一方的な発信というスタイルを
  とる事になってしまう、その発信の仕方が現代に合わなくなった

ということが最初に思いあたります。

でも、それにしても“誰か”によって、大分意味が変わってきますよね? それこそ
代理店業務をしている会社の営業マンや経営者だったら

「もうマスメディアの広告スペースは以前のようには売れない、おいしい仕事じゃ
なくなったよ」という意味かもしれないですし、出稿者側、つまりお客さんの
立場だったら、「広告は、見る人が変わったのか、いなくなったのか、コストに対して
効果が見合わなくなってきた」 という意味なのかも知れませんしね。

でも、媒体特性や、そこで発信するメッセージ内容を深く検討した上での企画が
出来る前に、「安いから」というだけで、あまり効果的とも思えない
出稿のスペースだけが先に決まっていたり
「せっかく高いお金を出して広告を出すのだから」という思いから?
安全策をとるあまり“今までのやり方”に固執し、その時その時の状況に
十分に対応出来ないままの形で広告を出稿してしまってたりということも
実際に多々見受けられるわけで、
ターゲットに関する要素を無視してメッセージするのであれば、それは、

広告じゃなくても同様に効かない

ですよね。 だって、インターネット広告だろうがソーシャル・ネットワークだろうが、
その特性やターゲットを無視して何かやっても意味が無いし逆効果になる場合だって
あるでしょ?そりゃなんだって同じですよね。

そう言う意味で、一概に“メディア自体が力を失ったのが原因”と言って、
おしまいにしてしまうのも乱暴な気がします。
 更に、時代や環境もどんどん変わる中で、当然マスメディア広告とかも
企業コミュニケーション全体の中での立ち位置は変わって来てると思うんですよね。
ということは、広告だけが従来のスタイル
(全体の中での広告のポジショニングという意味で、ですが)のままでいい、
なんて事はありえない訳です(この話題を次回)。

企業のコミュニケーション活動全体の中で“広告”は、その幅や影響力を
以前より狭めたのは事実かもしれませんが、だからといって、“広告”自体が
「終わった」とか「もう古い」とか、そういう言葉で決めつけてしまうのは、
それこそ広告だけの問題じゃなく、今、私たちが直面している大切な変化を
間違って捉えちゃうことになるんじゃないかなと思う訳ですよね。

単純に、言葉に煽られて、ただ入れ物を流行ものに変えるだけじゃ、
結局、何をやったところで同じじゃない?って思っちゃうわけです。


2月 14, 2010

きっと後から読むと恥ずかしい記念すべき第一回目のPOST

私は世間的には広告代理店と言われる会社、
と言っても、その中でも小さい方の一つで、
クリエイティブ・ディレクターという肩書きで仕事をしています。

クリエイティブ・ディレクターというのは、広告や販促物などの
デザインやコピーによる表現や企画に関する責任者で、
立案や企画から制作までチームを指揮、運営する人間のことです。

とはいっても、私の場合は大手広告会社(代理店)の立派な方々とは、
やっている事も扱う予算も全然違う訳で、同じ肩書きを名乗るのも
気恥ずかしいぐらいですがね。

で、この私たちの“広告業界”なんですが、最近
「ちゃんと自分たちの立ち位置をわかっているのだろうか?」と、
思ってしまうときがあるんですね。

まず“広告”っていうのは基本的に、TV・ラジオ・新聞・雑誌といった、
いわゆる4大マスメディアで出稿されるもの、それとシティボードや交通広告
(あと、ちらしや看板、Web・OnLine広告とかもそうですけど)を指し、
以前は企業コミュニケーション活動の中でも“ちょっと派手で花形っぽい
イメージ”のものだったという印象があります。

ですが現在、この“広告”の置かれている状況も変わって来ていて、
企業のコミュニケーション活動全体からすると、広告の担う領域は以前に比べ
小さくなって来ていると思うんですよね
(一概に広告は影響力を失ったなんて言ってるつもりはありませんけど。
その話しはまたの機会に)。
まぁ、唯一伸びてるのはWeb系でしょうか。

ですが、業界の中の人が“広告業界”と言うとき、未だに以前と同じ“特別感”みたいな
ニュアンスを帯びて?言われているように聞こえるというか、
中には、その他のコミュニケーション分野の各業界に対して、
何か上から目線的なものさえを感じさせられることもあり、
そこに凄い違和感を感じてしまうんですね。

会話の中では「コミュニケーション・デザインがどうの」とか頻繁に出て来るし、
仮に広告だけを取り上げるとしても、現実に、全体を念頭に置いた上で
戦略をたてているからこそ、

その企業のコミュニケーション活動の中で、
正しいポジションに、その“広告”を位置づける

ことができ、効果的なものを生み出せているはずなんですけどね。

もし、本当に“コミュニケーション・デザイン”全般にまで自分たちのサービスを
拡げようというのであれば、その人たちは既に“広告業界”の人じゃないわけですよね。
だし、その中で 「自分は広告の業務を専門としてやっている」 というのなら、
他のコミュニケーション分野の人たちと同じく、一翼を担っているわけじゃないですか。
そこら辺の意識を?自分たち自身でハッキリさせておかない限り、例えば
“広告”に関しても正しい提案って出来なくなっちゃうんじゃない?って思っちゃうん
ですけどね。“総合的な視点”でやってますっていうんならですが。