9月 30, 2012

性急に結果を求める


前回書いた広告やプロモーションにおける効果検証の結果もそうなのですが、何に関しても直ぐに結果を結論付け次の計画に移るというサイクルのスピードが早くなってきており、それが普通の感覚になってきていますよね。

計測された効果の原因の検証だけではなく、効果自体があったなかったの検証もかなり短期間で求められたりします。

もちろんビジネスですから、いついつまでに、これこれの結果を出せ!というミッションは必ずありますし、それが短期間で設定されている場合も当然あっておかしくありません。

でも無理な目標は、どんなに強引に設定したところで無理なわけでその目標の性質に合わせ設定する必要があります。
そこで無理矢理結果を出そうとするとその一瞬の成功のためにその後の計画や活動にとってネガティブな要因を引きずる様なことをしてしまう可能性さえあるのではないでしょうか。

例えば期間限定で素敵なおまけをつけ、ある商品を売ったとします。
そのキャンペーンが成功すれば成功するほど、その商品は“良いおまけがついて売られたもの”というイメージが付いてしまい、おまけの付かないその商品自体には何も魅力を感じなくさせてしまう可能性がありますよね。
割引クーポンなどもそうです。下手にやってしまうと割引されていて当たり前で定価で購入するのはバカらしいと思われる商品になってしまう可能性があります。

これらのプロモーションの目標が短期的に設定された瞬間的な売り上げだけならばしょうがないかもしれません。ですが、それを踏み台に半年後にはこの位、一年後にはこうと目論まれているのであれば慎重に考えた方が良いでしょう。

更にこの商品のファンの拡大といった目標が付加されているのであれば尚更です。ファンというのはその時、その瞬間だけ商品を購入してくれる人のことを指すのではないのですから。

ここでするべきなのは短期での目標と中・長期での目標を明確に分けて設定し、中・長期での目標を見据えることで、お互いのプロジェクトが相乗効果を生み出すようにしながら、どう短期の目標をクリアするのがベストなのかを考えていくことだと考えます。

9月 25, 2012

正確な検証って?


私の会社でもSNSを利用したPRの1つとしてフェイスブックページを利用しているのですが、それぞれのコンテンツに対する反応の違いを検証するのってやはりすごく難しいなと感じています。

単純に内容の問題なのか、はたまたそのコンテンツを投下した時間帯の問題なのか、最初に内輪でシェアし拡散をはかった人や数の違いなのかなど、色々な項目が上げられます。

更に内容の問題とひとくちに言っても、そのコンテンツがユーザーにどうとられたのか?というレベルで考えると、単に面白くなかったという話なのか、面白いと思ってもいいね!やシェアをしづらい内容だったのか、反感を買う内容だったのか、あるいは、写真やイラストのちょっとしたタッチの差、文章の差だったのかなど、まだまだ細かく分けられます。

そしてこれら1つ1つテストマーケティング的に全て検証したとしても実際はそれらの組合せが結果として表れているわけですから、簡単にこれが問題だったと決めつけてしまう事は間違った結果を導き出し、もっと重要な何かに気付く妨げになる可能性があります。

たまたま反応が悪かったとき、影響力のあるユーザーが見ていなかっただけというような問題もあるかもしれません。

これはSNSやインターネットだけのことではないと思います。
実行した広告やプロモーションの検証は、規模の大小はありますが上記の様に要素を色々な項目に分解してそれぞれを調査し、またその組合せを可能な限り検証し結果を導き出していくということをするのですが、そこから導き出された結果だけを見ると「ん?」って疑問に感じることや経験的に「間違っている」と感じることがよくあります。
酷い時には明らかな原因を認めたくないために、ある要素をスケープゴートに仕立てるべく恣意的に操作している?って思っちゃう様なものもあり、そういうやり方にも使えそうなくらい元々微妙で判断の難しいものだと思います。

とかく数字になっていると信憑性が高く感じられたりレポートするのが楽だったりするので、その結果をするっと受け取り事実としてしまうことが多いと思うのですが、そこは簡単に決めつけてしまうのではなく、いったん注釈付にするなどし少し長い時間をかけ粘り強く検証し続ける事が必要なのではないかと感じています。

9月 20, 2012

プレゼンテーション


暗記して、ほぼそらで話せないような内容のプレゼンを、聴く方は果たして本当に正しく理解することが出来るのでしょうか?

私は理解出来るとは思えません。正しくとなると尚更ではないでしょうか。

プレゼンテーションの資料が分厚くないとお金が取れないと思ってしまうのか(笑)。
提案の規模が大きくなればなるほど企画書の厚みは増しがちです。
まぁ規模が大きくなればなるほど説明しなければならない項目も増えるのが普通ですから、企画書も厚さを増して当然という部分もあります。
だけど、それにしても。。と思うことは希ではありません。

細かい文字で言いたいことを全部詰め込んだ大量のページ数に及ぶ企画書やプレゼンテーションの資料など細かく隅々まで丁寧に見る気になりませんよね。
「取り合えずかいつまんでポイントだけを説明して」と言いたくなります。実際そういう人もいるでしょう。

実際この、かいつまんだポイントだけがプレゼンテーションで必要なすべてなんです。
そして、プレゼンテーションなのですから当然、聴く人に興味を持たせ、引き込みそして飽きさせず、納得させやる気にさせるといった力が必要であり、それには演出が必要になるわけです。

実生活において、少なくない数の人がプレゼンテーションの上手い人を敬遠しがちだと私は感じます。
「騙されそう」とか「口ばかり」「上辺ばかり」と思ってしまうのでしょうか?誠実な感じがしないのかもしれません。
でも、もう一歩踏み込んで、実際は誠実であるにもかかわらず、それが伝わらず逆の印象が伝わってしまっていたのだとしたら、そのプレゼンテーションは失敗だったということになります。

なぜこんなことを書くのかというと、私たちは広告を職業にしていますので、そう考えたらプレゼンテーションが上手い人や会社の方が仕事も出来るということになると思うからなんです。

もちろんプレゼンテーターは、全員が全員それ(自分が表に立って人前で話すこと)が本業というわけではないですから、それがさほど上手くない人もいます。
しかしプレゼンテーションは、全体の流れや構成自体がその印象を決定づけますので、スピーカーの上手い下手に差があったとしても、それがよっぽどじゃない限りさほど影響はしないと考えてます。

逆にどんなに話し方が上手くても胡散臭いネガティブな印象を与えたとしたらそのプレゼンテーションは失敗であり、実際の広告の実施に際してもその部分の不安が残るのではないでしょうか。

そしてこれは、こういうことを本業にしない業界でも同じです。
プレゼンテーションを演出したことで胡散臭さがでてしまったとしたら、それは演出したことが失敗なのではなく、誠実さを伝えられなかった演出の仕方が失敗なのです。

さて、長々と書きましたが、 誠実さを伝える演出、伝えられない演出の話はさておき、 最後にプレゼンテーション自体の基本だと私が考えていることを再度書かせてもらいます。
一番最初に書いた“内容の量”です。

その目安は、プレゼンテーターが、メモに目を走らす程度で、ほぼそらで説明出来る量だと思っています。
それ以上の量だと聴く方は覚えきれず、また、そらで突っ掛かるような流れでは、聴く方にも当然スムーズには入っていかないでしょう。

それをクリアした上で、次にそれがちゃんと自分たちの誠実さを伝えているかどうか吟味してみてください。
きっと本当に伝わるプレゼンテーションになるのではないでしょうか。

9月 15, 2012

広告とブランド


私は広告を通じて、人の暮らし方や物に対する価値観を変えようとか、見る人に感動を与えたいとか、そんなおこがましいことを考えながら仕事をしたことは一回もありません。
広告ですから(笑)。

広告は企業や商品、そしてサービスなどと生活者を出会わせ結びつけるきっかけだと思っています。

そして、だからこそその広告に表れる、メッセージされるもののブランドがとても大切になると考えています。

最終的に売れなければ意味がないというのは十分承知の上であえて書くのですが、売れれば何でも良いというのだけは、どうしても個人的に抵抗があります。

もちろん商品やサービスによっては何でも良いから売れれば良いというものも無いわけではないでしょうし、そうであれば分からないでもないのですが、たぶんその場合に必要とされる手法は広告ではないのではないかと思っちゃうんですけどね。

このことは、じゃあ広告の定義は?という話になるのですが、取り合えずここでは私の考える広告以外とは、店頭などでの販促プロモーションやイベントなどであるとだけいっておきます。

話がちょっとそれましたが、なぜ広告にブランドが大切だと考えるのかということに話を戻したいと思います。

先ほど広告は企業や商品、そしてサービスなどと生活者を出会わせ結びつけるきっかけだと思っていると書きましたが、正にそれが理由になります。
たかが広告で人の意識や生活を変えられるとも、感動を与えることができるとも思っていないということも書きましたが、企業や商品、そしてサービスなどには、それらをなすポテンシャルが含まれていると思っています。
つまり、それらを生活者がなんなりかの形で経験することによってなしえるのです。

そして、広告がそれを起こすきっかけであるならば、そのことをメッセージに触れる生活者に予感してもらうことが出来るよう伝えることが広告の役目なのだと考えるのです。

正にその伝えなければならない部分こそ、ブランドなのではないでしょうか。

9月 10, 2012

クリエイティブってなんだ?


広告の制作に“クリエイティブ”という言葉が使われ出してから結構経ちます。

私自身は、自分の職業にクリエイティブという言葉を使う事にちょっと抵抗があるといいますか、そんなに好きではありません。
他にもっと上手い言い方が出来ないというのが理由で、この言葉を使っている事が多いでしょうか。

例えば、クリエイティブという言葉は制作という言葉で置き換える事がありますが、全てを表しきれてはいないと思っています。また、デザインやコピーライティングと置き換えても同じです。
制作というと、どうしても作業とかオペレーションを強く連想しないでしょうか。同様にデザインとコピーライティングだと、具体的にどう表現するか?の表現の工夫の部分、つまり装飾的な部分だけにフォーカスが向けられてしまう様な気がするのです。

私は自分の仕事を、上記の制作やデザインとコピーライティングに加え、当然のことなんですが、きちんとビジネス、マーケティングを踏まえた企画立案までを含むものだと考えています。ですので最終的なアウトプットにのみ関わるイメージの言葉だと不安に感じてしまうんですね。理解されづらいんじゃないかと。

もちろん最終的な表現をどう出来るのか?というところの技術、技量、センスなどは非常に重要です。
というか、私たちの仕事のかなりの部分をしめるのは確かだと思います。

でも、だからといってどんな企画だろうが最終的な表現だけ整っていれば成立するのか?良い物になるのか?といったらそうではありません。まずい企画はどんなに最後だけ体裁を整えてもまずいものでしかないですし。
そして、本当に良い企画というのは最終のアウトプット、また、どのような形で見る人に触れるのか?がきちんと想定され計算、設計されてなければならないものだと思っています。

もちろん、そのことをクリアする意味で我々と同じ職業であるということは必ではありません。他の職種の方でも当然可能だとは思っています。
ですが、最終的なアウトプットとそれがもたらす効果を四六時中考えている我々は、当然その視点で企画を作る事ができるプロでなければならないと思っています。

誤解の無いようもう一度書きますが「企画までを我々デザイナーやコピーライターがやるべきで他の職種の人は素人なんだから黙っていろ」というようなことは到底言うつもりはありません。そのような素晴らしい企画を作れる方は他の職種の方でも実際沢山います。

ただ同時に、我々が本来の力を発揮出来るのも、その部分まで積極的に参加し考えるからこそだと思うのです。
私たちは私たちの視点と経験を持ってその部分にどんどん口を出していくべきだと思いますし、アウトプットを本当に効果的なものに近づけるために最大限力を発揮するべきではないかと思うのです。

その様な意味で、自分たちの仕事にもっとも適した言葉は?と聞かれると、どれも片手落ちな気がしてしまい(本当は、デザイナーやコピーライターという言葉にもそれらの意味は含まれているはずなんですけど 笑)、クリエイティブという言葉を使ってしまう事が多いのでしょうか。

ただ最近のクリエイティブという言葉は、単なる制作や表現の部分のみで、ビジネスやマーケティングに基づいた企画、コンサルの部分を含まない形で使われているケースが多く見られます。
まぁ、結局は用語云々じゃなく自分たちの存在価値をきちんと説明し、実際そのように実践して理解を深めてもらうしかないんだろうなと思い始めています。

そうそう、ちなみに私はクリエイティブという言葉は使う事はあっても、自分たちの事をクリエイターとはなかなか言いませんね。不思議なんですが(笑)

9月 05, 2012

時間との付合い方


前回書いたように、時間とムダの科学 (PRESIDENT BOOKS)という本を読んでみました。
ビジネスパースンの時間との付合い方に関する、大前 研一さんほか何人かの方の共著です。

この中で何人かの方が言っているのが、先ずは現在の自分の時間がどのように消費されているのか?をきちんと把握する事が重要だという事です。

確かに何事もそうなのですが、ゴール、目標を設定しそこに到達するための道筋を考えるには、先ずは、そこを目指す主体が現在どのような状況にあるのかを正確に把握する事がもっとも重要になります。当然時間に関する計画も同じということですよね。

前回、私は自分の時間に関して「これが何の時間、あれが何の時間と区切って捉えられない様な使い方をしている」そして、そのこと自体が「私の時間の使い方に関する問題の本質」ではないかということを書いています。
そして、この本に書かれている時間のムダに関する最大の問題も正にこの事だったのです。

この本の中には著者の方の一日のスケジュールがサンプルとしていくつか掲載されていました。
そのサンプルを始め例として出てくるものは、実はそんなに細かく何の時間と区切って分類してあるわけではありませんでした。
私の仕事に置き換えると“情報を収集する時間”“既存のお客様に関する企画や作業をする時間”“新規顧客の獲得に関する企画や作業をする時間”“雑務処理をする時間”“社内会議の時間”“社内の状況を把握する時間”ぐらいに分ける感じでしょうか?

まぁ、私の現状ときたらそれすらも区切るのが大変な感じなのではありますが。
それでも、出来ないと言って片付けてしまうのではなく、何とか区切れるように調整してみるところからやらないと、というわけですね。
これをやる事で、自分の今の時間がどのように使われているのか、何がムダだったのかが初めて分るわけで、そこがスタートですもんね。

9月 01, 2012

時間配分


決意をあらたにする!というのが一番無駄っていう言葉を目にしました。大前研一さんの言葉のようです。

それによると、時間の配分を変えるか、住む場所を変えるか、あるいは付き合う人を変えるかでしか人は変わらないそうです。
ちょっと興味をもちました。

この言葉に関することで「住む場所を変えるというのは、なかなか難しいけど、時間の配分を変えるのなら誰でも今すぐできる」的なものがあったのですが、時間配分を変えるって結構大変じゃないですかね?

だって、まず何を変えます?食事やテレビを見ている時間、インターネットを見ている時間を減らす?
仕事でよく言われるのは、会議にかかる時間についてですが、それ以外の事は配分を変えるために、上手く何々の時間というように区切って考える事がみなさんは可能なんでしょうか?

当然、仕事によって大分変わってくるのでしょうが、こと私自身の仕事に関して考えると、なかなかそれらを区切って捉え、時間の配分を変えるのは、そう簡単には出来ない状態になってしまっています。

たぶん難易度のレベルで言うと他の二つとたいして変わらないんじゃないでしょうか。
そういう意味では確かに決意をあらたにする!というのは、めちゃめちゃ簡単ですよね(笑)

でも、そのように区切って捉えられない様な時間の使い方自体が、自分の何かを変えたいと思った時になかなか変えることの出来ないそもそもの原因なのかもしれません。

実は私のネットに接する、ながら的な常時性が、まさにその時間の使い方になっているんですよね。

調べものから情報収集そして息抜きまで、ちょこちょこと区切り無く常に見ている感じになっているのです。
それに、ちょっとした調べもののつもりでも、それ以外の情報もどんどん入ってきますし。
まぁ、それを情報収集と言うかどうかなんですが、目的とした調べものにかかる時間より遥かに多くの時間をそこに費やしているような時も実際あります。
まずそこから変えろってことかな?

って思ったところで、先ずは例の大前研一さんの言葉が書かれているという本を読んでみたいと思います。


プレジデント社 時間とムダの科学 (PRESIDENT BOOKS)  著/大前 研一 ほか