4月 30, 2012

コストダウンで削られるもの


値下げ、コストダウン、安い価格で売られる事について思っている事を書きたいと思います。

現象としての ”安くなった” とか ”安い” という事には様々なタイプが有ると思います。つまり実質的にはどうか?ということなんですが、私は価格が下がっても品質やサービスに全く損傷が無いものは、安く売られている訳ではなく正に適正な価格で売られているのだと思います。そういったものが、それまで高かったのなら、それは誰かがぼるのを止めたのか(笑)、大量生産出来る仕組みが出来たかというような理由から適正な価格に下がったという事ですね。

もちろん、その品質をどう考えるかは購買者の価値観に依存する為、売る側が何と言おうが買う側にとってどれだけ価値が有るかで判断されてしまいます。
つまり「うちの商品をあんな安物と一緒にしないでくれよ!」と考えているのであれば、”あんな安物” では良くないと思っている人をお客さんにするしかないのです。
そこで、こういった人たちを探して商品を売り込んだり、そうは思っていなかった人たちに対し、その価値に気づかせようとする販促のアプローチをするわけです。

話がそれました。

ここで書きたかったのは、適正な価格で売られているものの事ではなく、適正な価格よりも“安く売られているもの” の事です。
例えば「あんな安物と一緒にしないでくれよ!」という商品やサービスが、”あんな安物” と同じ価格で売られている場合です。
”あんな安物” が不当に高く売られているという場合はまた話は変ってきますが、”あんな安物” なりの適正な価格で売られていた場合に、”あんな安物とは一緒じゃない” 商品やサービスをその価格まで下げるとすれば当然何かを犠牲にせざるを得ません。
材料の質か、それを実際に作り出している人の労力の対価といったものです。労力の対価は、仕事に対して実際に手を動かした事に対する金額かもしれませんし、何か新しいアイデアに対する報酬かもしれません。

元々かかっていた費用が適切であるか、同じものを安く入手出来るという事になったのでない限り、材料のコストを下げれば、それはそれなりのものに変わってしまうでしょう。
また、何らかの労働への対価を削れば、それが単純労働じゃなければないほど、やはりそれなりのものになってしまうのは避けられないでしょう。同じものを安く入手するのが難しくなるからです。

例えば、アイデアを生み出す人のインプット(生み出す為に必要な知識や経験)や実際に生み出す作業には、当然それなりの費用や時間がかかっています。もしそれに対する正当な対価が得れないのであれば、そこに多くの時間を割くのは無駄であり、どこかの誰かのアイデアをそのまま拝借してコピー商品を作っていた方が効率も良いわけです。
ま、仮にそうしたいと思っていなくても、インプットの為に必要な経費が使えないのですから、自然にアウトプットもそれなりのものに成らざる得ないわけですが。。
つまり、そういった商品からは少なくとも ”オリジナリティ” といった要素は剥ぎ取られていくのです。

既に出回っているもののコピー商品にも安さといった利点があるのでしょうが、オリジナルにはオリジナルの効果や機能があります。ですがコピー商品と同じ価格でオリジナルと同様の効果や機能を求めてもそれは無理というものでは無いのでしょうか。

4月 25, 2012

それは対立しているか?それは本当に理由なのか?


とにかく何でも良いから、たとえ勘違いされた結果でも良いから商品が売れれば良い。
仕事の依頼を受ける際、このような感じの話になる場面があります。もちろん全ての場合において、このように露骨に要求が口に出される訳ではなく「言っている事の意味合いからするとそうだ」となる場合の方が多いのですが。

”背に腹はかえられない”事や、食べるものも無いのに建前や奇麗事でしかないと捉えられがちな "考え方" や "ポリシー" について、どうのこうのなんて言ってられないという気持ちになるのは分らなくはありません。これまで全く売れず、このままでは大赤字になりそうな商品が、今なら、10%安くするだけで間違いなく売れると分っている状況であれば「自分たちは◯◯だから絶対に割引はしない」などとは言ってられないのが本音でしょう。実際にそのような都合の良いシチュエーションはなかなか無いにしても、追いつめられた売る方の心理としては、いつも、そう思ってしまうでしょうし。

でも、モノを売る事と、自分たちの "考え方" や "ポリシー" を貫く事って、本当に対立したものなのでしょうか?確かにアートとかロックバンドの世界とかでもよく聞きますよね。「あいつは商業主義だ」とか(笑)。「プライドで飯は食えん」とかっていう言葉も、何となくちょっと似ているかも知れません。
もちろんそれぞれの内容によるんでしょうけど、どうも "モノを売る” 事に対する "考え方" や "ポリシー" といったものの旗色は大方の場合悪そうです。

ちなみに、ここで言う "考え方" や "ポリシー" というのは、お金儲け以外(逆に利益を上げなければならないといった事は当たり前の話ですもんね)の、目標やあるべきと考えている姿の事ですので、前述したように建前や奇麗事と捉えられがちなのもしょうがないかもしれません。 企業の目的なんて、本来、売り上げや利益を上げる事にしか無いはずで、その利益を大きくする為にしている、あまり褒められない事や後ろめたい事を誤摩化す為、生活者を騙す為に綺麗なお題目を掲げているだけでしかない、という訳ですね。

この事は実際にはどうなのか?という事は、このテーマからずれるので、これ以上は書きませんが、ただのお題目にしないよう行動をしている企業はもちろん有るでしょう。 でも、もしどこかが開き直って「私たちは何でもいいから売れれば良いと思っています」というメッセージを発信していたら、そのような企業からは何も買いたくはならないですよね?当然です。ですから「これは便利ですよ」とか「お得ですよ」とか?別のアプローチでメッセージしているわけです。

ところが、これらは、今や数ある商品やサービスの洪水の中で、特に競合との差別化になる ”便利” や ”お得” ではなくなって来ている場合が多く、その状態が何を生むかというと、先ほどの例にも出した ”値下げ合戦” と「何でも良いから、とにかく目立とう」という様な、販促の方向性なんです。

それにも限界があります。極端な値下げに伴うコストダウンを行いながら、本当の意味でそれまでと同様の品質を保つという事は殆どの場合あり得ません。見えない部分で必ず何かを削っているはずですよね。
品質やサービスへの影響が出れば顧客はそれを絶対に見逃さないでしょう。そしてそれが気に入らなければ二度とその商品には戻ってこない可能性もありますよね。

この値下げ合戦に巻き込まれる状態というのも「とにかく今だけ」という考え方と同じ。それこそ ”今” 売れれば何でも良い訳です。

 ”今” 売れれば何でも良い、とにかく目立てば良いという、その場限りのメッセージは、その発信者とあまりリンクしないものになりがちです。それを見た方は、その瞬間は面白くてそれを憶えていたり友達と話題にするかもしれませんが、その情報なんて新しくなくなったり、飽きたりした時点で忘れてしまいます。その後、何かの拍子に思い出したとして企業名や商品名も一緒に思い出してもらえるものがどのくらいあるでしょうか。よほど大量にテレビコマーシャルなどで露出したものじゃないと思い出せないのではないでしょうか。

”今” が大事と言いますが、では、”今” ってなんでしょうか。過去から繋がって到達しているものですよね?未来も ”今” が積み重なって到達するところではないのでしょうか? ”今” だけという事でやった事は、そのまま次の ”今” にも影響する訳です。結局は、その ”今” が、ずっと連続して続くことで信用を失い、力を失い、魅力を失ってしまうのではないでしょうか? ”今” やらないからいつまでも、そういう ”今” が続くんじゃないでしょうか。

ちなみに私は "モノを売る” 事と企業の "考え方" や "ポリシー" といったものを伝えるブランディングの意識は対立するものとは考えてません。逆に背景に企業の "考え方" や "ポリシー" がちゃんと敷かれた上で、驚きのある、面白い、売れるプロモーションは成立すると考えています。
というか、そもそも毎回そのとき限りで、次も同じようにお金と労力をかけてやらなければならないのでは無駄も多いですし、何より資金が潤沢にある企業じゃないと出来ませんもんね。

さて話がちょっと飛びますが、こだわりのカフェや飲食店なんかは、どちらかというとその ”考え方やポリシー” で、その場限りじゃないその店のファンを惹き付けてますよね?その方式をとったところが悉く上手く行かずに潰れているのか?といったらそうではないです。

であれば、そのやり方で上手く行かず潰れてしまったのは、その ”考え方やポリシー” を貫くというやり方がまずかったんじゃなくて、何か他に原因がある可能性がありますよね。

プロモーションの話に戻すと例えば ”ブランドのあり方を背景にメッセージする” というやり方は間違っていなくて、単にその ”表現のされ方がまずかった” という事が原因である可能性もあるわけです。

4月 21, 2012

機能的な価値。情緒的な価値。


ずっと不思議に思っていた事があります。不思議と言うか、歯がゆいと言うか。。

なぜ日本の企業は「私たちは◯◯です!」と明解に売り文句を言い切らない事が多いんだろう?なぜ出来るだけ分り難く、曖昧にするんだろう?という事です。
”日本の” と書いてるのは外国の企業と比べてという訳じゃなく、自分自身が殆ど日本国内の企業の仕事しかした事がないからです。

もっと、自分たちの得意としている部分、売りにしたい部分を強く言っても良いんじゃないかなぁとか、自分たちの商品やサービスを誰に支持して欲しいのかを明確に表現しても良いんじゃないかなぁと思う事が多いんです。

ある日、私は仕事でお客様の会社の部長クラスの皆さんを取材させていただいているとき、その方たちの一人からこんな言葉を聞きました。

私:新規で仕事を獲ろうとする際、御社の営業の方が好んで使う様な売り文句といいますか決め台詞みたいなものはありますか?
お客様:こちらから先に言うような売り文句や決め台詞はありません。逆に余計な事を言わずに先ずは先方がどんな事を求めているのかを聞くようにしています。その上で、その課題に合った弊社でこそ上手く出来る解決策を提示するようにしているんです。
こちらが、はじめに ”売り” を言ってしまうと、先方は「ああ、ここは◯◯の会社なんだな」と変な先入観を持ってしまう事が多く、それとは関係無いと判断した課題を口にしなくなってしまうので、自ら多くの仕事に繋がる可能性をつぶしてしまうんですよ。

これは本当でしょうか?ある意味ではその通りかもしれません。
ですが、それは ”売り文句” ”決め台詞” を数ある商品やサービスの一つを選んで売り込む事とした場合じゃないでしょうか。

私の言う「私たちは◯◯です!」は、そういう意味での ”売り文句” や ”決め台詞” ではありません。
前出の ”売り” を機能的な ”売り” とするなら、私が言いたいのは、もっと情緒的な ”売り” と言うんでしょうか。。
例えば個人に置き換えると、「私は料理が得意です!」「私は映画にはちょっとうるさいです!」「私は水泳が得意です!」これらは、それぞれいくつかある中の一つのスペックですよね?
その中でどれか一つを選んで売りにしなければならないとしたら、当然あなたの事を相手に伝えるには不十分ということになっちゃいますよね。
そういう話だったら、まず相手が何を求めているのか?を知ってそれに対し自分が出来る事、得意としている事に関連させてアピールしていった方が話はスムーズに進むでしょう。

でも、あなたのファンになってもらおうとするなら、そういうスペック的な面だけではなく、もっと感情に訴えかけるもの、例えば、ものに対する "考え方" や ”姿勢" 、”夢” みたいなものを伝える必要があるんじゃないでしょうか。

それは企業にとっても同じなんじゃないでしょうか。
この様なメッセージによって、企業に対する情緒的な価値を相手の心の中に作ってもらう事で、それまでの機能的、スペック的な価値しか持たれていない状態よりも俄然その企業やサービス・商品の事を好きになり、ファンになってくれるはずだと思うんです。

4月 18, 2012

説明する。説得する。気持ちを伝える。


私たちの職業では、ビジュアルやコピーなどで表現したメッセージの意図や狙いを、発注者であるお客様に説明し、了解を得て、実際の制作物の制作に入ります。
ただし、全てにおいてそのプロセスが必要か?というと、比較的単純な戦略のものの中には説明しなくてもよいもの、つまり説明が無くても充分に理解を得る事が出来るのもある事はあります。私の元上司が「メッセージに触れるターゲットや生活者は何の補足説明も無くこれを見る事になるんだから、もし説明しなければ分らない様なものだったら、それはメッセージとして機能していないってことなんだよ」と言っていた事は良い助言として今でも常に思い出しながらやっています。
”分りやすさ” ”伝わる事” (つまり単純である事ではなく、発信者として意図した通りにメッセージを伝える事が出来ているという事)は、優先順位として当然、最上位に来るものですし。

しかし、少し複雑な仕組みの企画などでは、生活者がどこで最初にそのブランドに触れ、そこでどんなメッセージを受け取り、次のステージではどうなる事が想定され、最終的にどんなアクションを起こして欲しいと期待しているのか?といった ”ストーリー” と、その、それぞれの場面に対し、提案している表現がどうリンクし、どう機能する様に設計されたものなのかは、やはり説明しないと、なかなか理解してもらえないものですから、実際に提案の席でその表現案に関して説明せず黙って見せるだけというのは、なかなかありません。
提案している担当者の方に、実際の場所、実際の時系列での情報への接触を、そのまま体験してもらえる訳ではないですからね。想像による疑似体験を頭の中で行ってもらう為には、どうしても前提や狙いなどの説明をする必要が出てきますよね。

ところで、上記の様なものは、”説明する” のが正しいんでしょうか?それとも ”説得する” のが正しいんでしょうか?
”説得する” というのは、私は個人的にはあまり好きな言葉ではありません。それに人間には元々他人から ”説得” されて決断するというのを好まない傾向があるという事も聞きます。要はどんな場面であれ「自分で決定して行動したい」と感じているらしいのです。

じゃあ、やっぱり ”説明” なのでしょうか?
悪くはないのですが、 ”説明” だとなんとなくあっさりしすぎていて機械的すぎる感じがしてしまいます。

私はこのような場合、いつも ”伝える” ようにしようと心がけています。

これら ”説明する” ”説得する” ”伝える” は、それぞれ違うものなのですよね。 ”商品の良さを説明する” のと、”商品の良さを説得する” 、そして ”商品の良さを伝える” と例を挙げると更にわかりやすいと思います。

”説明する” ”説得する” は、一方的になりがちですが、”伝える” は、伝わった相手がいて成り立ちます。私たちは相手に対し、その良さを、意図を、そして熱意を伝えるというのが正しいんじゃないかと思うんですよね。

”伝える” のは、形式や型、テクニックではないと思っています。一番大切なのは、常に相手がいるという事を意識する事、そして次に熱意なのではないでしょうか。

4月 10, 2012

堂々巡りからの脱出


堂々巡りの議論になってしまう人、いますよね。ある本では、”型にはめる” という教育を受け、それが染み付いてしまった(本人は自分で考えているつもりでも実は違う)人に多く見られると言っているのですが、その本についてはまた別の機会に。
この ”型にはめて考え” てしまうというのは、目の前に有る問題を、既に自分の頭の引き出しの中にある ”型” のどれかに無理矢理はめて解決しようとする事で、つまり、当該の問題に適合した新しい ”型” を、元々引き出しにあった ”型” から考え出すといった応用力が無いという事かと思います。

じゃあ、応用を利かすには?
勿論 ”考える訓練” というのが必要だというのは、その通りだとは思いますが、同時にある前提を共有出来ているか?というのも大切になってくるのではないでしょうか。

それは、その議論を行う目的であり、その目的が設定された理由です。

具体的に説明するにあたって、まず、堂々巡りにはどんな種類のものがあるか考えてみました。

1. 自分たちでは直接解決出来ない問題が障壁になっていて、その周りをぐるぐるまわっているというもの。
2. いつの間にか ”目的に向かう”ことから反れ、そこに到達する為の ”やり方・進め方の善し悪し” あるいは ”その手法に対する、それぞれの好み” の話になってしまい、どこまで行っても折り合いがつかないといった様なもの。
3. そもそもゴールを明確に決めないまま(これはゴールが無いのではなくゴールを決めないという問題)、議論を進めてしまっている場合に、それぞれが好き勝手なゴールに向かって考えを進める為いつまでも纏まらないというようなタイプのもの。などなど。

これらは全て、ゴールの共有の問題ですよね。
ただ、1つ目の問題に関しては、それを共有する時に、”なぜそのゴールに向かわなければならないのか?” という部分まで一緒に共有出来ているか?というところが大切になってきます。

”自分たちで直接手が下せない問題が、そのプロジェクトの障壁になっている” 問題の場合、

A. その障壁を崩す為の間接的な手法を探す。
B. その目標自体をちょっとずらして、その障壁を回避して到達出来るものに変更する。
C. プロジェクトの遂行自体を諦める。

などが考えられると思うのですが、この様な選択肢の中でああでも無いこうでも無いとなっている事が多いのではないでしょうか。先ずは、その3つの選択肢の内のどれか1つに絞れるだけでも全然違いますよね。

そして、そこを判断するには、”なぜ、そのプロジェクトをやろうという事になったのか?” という理由が議論する全員に共有されている必要がある訳です。

明らかに、止めてしまっても何の問題もないプロジェクトだったら、さっさと止めるのが良いかもしれません。また、実はプロジェクトの細部にくっついてきている条件はあまり拘る必要のないものであり、その結果さえ達成出来れば問題無いという性質のものであれば、それらの邪魔な条件を取り払ってしまう事で全然見通しが変って来るかもしれません。
どうしてもその条件で目的を成功させなければならない種類のものでしたら、どうにかしてその障壁を取り除く方法を考える事にみんなで集中した方がいいですよね。

これらは、ゴールと同時に、何故そのゴールに向かっているのか?という理由を分かっている事で判断できるようになる部分ですもんね。

2つ目の ”ゴールを見失ってプロセスの部分で迷宮に入るパターン”  や、3つ目の ”そもそもゴールが明解になっていない” というのも、ゴールの共有と同時に、そのゴールに向かわなければならない理由も共有しなければ、結局1つ目と同じところに迷い込んでしまう可能性があります。

何故そのゴールに向かおうとしているのか?という理由も共有されてはじめて、”ゴールを明解にした” と言えるのかもしれませんね。

4月 08, 2012

人から見えない自分の ”普通”


私たちの仕事では、ブリーフといったものを使います。

それらにはプロジェクト・ブリーフやクリエイティブ・ブリーフといったものがあり、それぞれ若干内容は変りますが、要は広告などを作る際の要件、前提や条件、状況などを短くシンプルにまとめたものです。

クリエイティブ・ブリーフの内容は、”商品・サービス・企業などと、その競合との関係や状況” ”ターゲットに関する事" "最も強く伝えなければならないメッセージは何か" などで、自分では、わかっているつもりだったのに、考えに熱中している間に少しずつ目指していたはずのゴールから外れてしまったり、あるいは、一緒に仕事を進めるメンバーやお客さんとの間において、それらの前提を ”当たり前の事” としてしまったり、あるいは ”ちゃんと伝えたつもり” になってしまっていて、ちゃんと意思統一されておらず、気付いたら、それぞれが別なゴールを目指して進んでしまい、後から方向修正したり纏めたりするのが大変になってしまうのを避ける為のシートです。

でも、小さい事まで含めると、こういう勘違いって何気ない普段の会話にさえあることですよね。
実は前置き的なものがある話に、それを相手と共有しないまま話をしてしまっていると、暫く経ってから「あれ?そういう話?」ってなったり、「何で、その結論になるのか全然わからない」といった事になりがち。
そして、これは自分が普段まったく交流のない職種の人たちやグループと会話をしなければならない時に、更に際立って表れる現象かも知れません。ある業界や会社、グループにとっては当たり前、あるいは常識的な前提になっている事柄は意外に多く、そのグループ内では、いちいちその事を前置きしたり、確認したりする事なく会話をしてますので、普段そのグループにいない人が突然そこに入る事になると、その人には、そこで話されていることが、いったい何の事やらさっぱり分らず、適当に想像して聞いていると後で全く意味が違っていたことがわかったり。

広告やプロモーションにおいても、 B to B の製品やサービスを提供している企業は、そのターゲットを普段から付き合いのあるツーカーな間柄の業界に向けている事が多いので、知らず知らずの内に、ちょっと違う業界の人たちがたまたま目にしても、何を言っているのか全くわからないようなメッセージになってしまっていることも少なくありません。
しかし、恐ろしい事にそういうメッセージの仕方が ”当たり前” で ”常識” になってしまうと、いざ普段とは違うところにもアプローチしたいと思った時、そのことが特別な状況での常識だということに、なかなか気付けず失敗をしてしまう事も多いんですよね。

前半でも書きましたが、これは業界標準の話ではありません。ごく小さなグループや仲間の間においても、普通に起きている事です。
そして、これは言葉だけの話でもありません。実はビジュアルのコミュニケーションにおいても同じ事が言えるんですよね。