堂々巡りの議論になってしまう人、いますよね。ある本では、”型にはめる” という教育を受け、それが染み付いてしまった(本人は自分で考えているつもりでも実は違う)人に多く見られると言っているのですが、その本についてはまた別の機会に。
この ”型にはめて考え” てしまうというのは、目の前に有る問題を、既に自分の頭の引き出しの中にある ”型” のどれかに無理矢理はめて解決しようとする事で、つまり、当該の問題に適合した新しい ”型” を、元々引き出しにあった ”型” から考え出すといった応用力が無いという事かと思います。
じゃあ、応用を利かすには?
勿論 ”考える訓練” というのが必要だというのは、その通りだとは思いますが、同時にある前提を共有出来ているか?というのも大切になってくるのではないでしょうか。
それは、その議論を行う目的であり、その目的が設定された理由です。
具体的に説明するにあたって、まず、堂々巡りにはどんな種類のものがあるか考えてみました。
1. 自分たちでは直接解決出来ない問題が障壁になっていて、その周りをぐるぐるまわっているというもの。
2. いつの間にか ”目的に向かう”ことから反れ、そこに到達する為の ”やり方・進め方の善し悪し” あるいは ”その手法に対する、それぞれの好み” の話になってしまい、どこまで行っても折り合いがつかないといった様なもの。
3. そもそもゴールを明確に決めないまま(これはゴールが無いのではなくゴールを決めないという問題)、議論を進めてしまっている場合に、それぞれが好き勝手なゴールに向かって考えを進める為いつまでも纏まらないというようなタイプのもの。などなど。
これらは全て、ゴールの共有の問題ですよね。
ただ、1つ目の問題に関しては、それを共有する時に、”なぜそのゴールに向かわなければならないのか?” という部分まで一緒に共有出来ているか?というところが大切になってきます。
”自分たちで直接手が下せない問題が、そのプロジェクトの障壁になっている” 問題の場合、
A. その障壁を崩す為の間接的な手法を探す。
B. その目標自体をちょっとずらして、その障壁を回避して到達出来るものに変更する。
C. プロジェクトの遂行自体を諦める。
などが考えられると思うのですが、この様な選択肢の中でああでも無いこうでも無いとなっている事が多いのではないでしょうか。先ずは、その3つの選択肢の内のどれか1つに絞れるだけでも全然違いますよね。
そして、そこを判断するには、”なぜ、そのプロジェクトをやろうという事になったのか?” という理由が議論する全員に共有されている必要がある訳です。
明らかに、止めてしまっても何の問題もないプロジェクトだったら、さっさと止めるのが良いかもしれません。また、実はプロジェクトの細部にくっついてきている条件はあまり拘る必要のないものであり、その結果さえ達成出来れば問題無いという性質のものであれば、それらの邪魔な条件を取り払ってしまう事で全然見通しが変って来るかもしれません。
どうしてもその条件で目的を成功させなければならない種類のものでしたら、どうにかしてその障壁を取り除く方法を考える事にみんなで集中した方がいいですよね。
これらは、ゴールと同時に、何故そのゴールに向かっているのか?という理由を分かっている事で判断できるようになる部分ですもんね。
2つ目の ”ゴールを見失ってプロセスの部分で迷宮に入るパターン” や、3つ目の ”そもそもゴールが明解になっていない” というのも、ゴールの共有と同時に、そのゴールに向かわなければならない理由も共有しなければ、結局1つ目と同じところに迷い込んでしまう可能性があります。
何故そのゴールに向かおうとしているのか?という理由も共有されてはじめて、”ゴールを明解にした” と言えるのかもしれませんね。
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