7月 30, 2012

世の中に足りないと思うもの


今、自分の目に見えている世の中で、自分の活動領域において何か不足しているように見えますか?

それは実現出来れば価値のあるものですか?

何でそう思うのでしょう?

それは自分以外の人にとっては価値のあることでしょうか?

価値があると思ってもらえそうな人たちは、どのような人たちですか?

逆に、それに価値が無いと思いそうな人たちは、どんな事に決定的な足りなさを感じ、実現できれば価値があると感じるのでしょう?

それは、あなたが不足している(実現出来れば価値がある)と思うそれと、実は見えていない何かで繋がっているものでしょうか?新たな何かを間に挟むことで繋がるものでしょうか?

もちろん自分以外の人たちを考えから除外してしまうというやり方もありますよね。
その場合、周りが、あなたのやっている事に価値を見い出せるようになるのは、昔の画家の様に時が暫く時が経ってからになるかもしれません。
はじめから、自分が考えている、自分のやっていることの価値に見合った対価を得ることは、なかなか難しいかもしれませんね。

7月 29, 2012

そうデザインしてある理由


提案したデザインの一部に変更の指示が入りました。 赤字の内容から指示の意図を想像し訂正を加えて再度提案したのですが、どうもこちらが想像した意図とは違っていた様です。
ま、最初の時点でその意図をきちんと聞けてなかった自分たちも悪いわけですが、改めて確認してみると「とにかく最初のものと見た目が変っていればいい」ということです。突き詰めると、変更しなければならない理由は、その担当者の「上司がそう言ったから」、とにかく見た目が変っていれば、どう変えても構わないということになります。

私にはちょっとそんな事は信じられません。

私との窓口になっている担当者は、もしかしたら単に上司の “気分” で、そういう指示が入ったと思っているのかもしれません。
確かにそういう傾向の、所謂テキトーな赤字が入る事は稀ではありませんが、それにしてもその時その赤字の理由を一応でも聞いてみたのでしょうか。
きっと、窓口の担当者も、デザインに “意味” などというものが有るとは、あまり深く考えてないのでしょう。

人によっては、もしかしたら「デザインに意味があることぐらい当然分ってるよ」と言うかもしれません。でもそれは、あくまで、分っているというより、知っているという類のものなのではないでしょうか。なんとなく知識として知っているという感じ。

でも、それは単に情報の1つとして聞いた事や読んだ事があるとしても、あまり役に立たないのではないかと思います。

何故そのデザインになっているのかは、どういう効果を期待された設計なのかというところまで理解してはじめて大切な事になるのであり、単に審美的なものやデザインの表現の技術的な理由からくるものだけではありません。
制作者の個人的な勘や経験に拠るところはあるにしても、そのマーケティング的な戦略を担う上で、なるべく大きい効果を得るために「こうなっているべきだ」というものもあるということです。

そのレベルでの検証が加えられた結果としての修正依頼なのか。であればそれに対し、どう考えるから修正が必要だと思っているのかがないと、どう修正する “べき” か?という判断は出来ません。そこには正解がないからです。

その事を理解していれば、上司から意見を言われた際もその理由をきちんと聞けるでしょうし、前もって現状なぜそうなっているのかというデザインの意図もある程度は説明出来るでしょうから、理由の無い、つまり “意味の無い” 修正をいくらかでも避けることが出来るのではないでしょうか。

もちろん理屈じゃ避けられない正真正銘気分屋でテキトーな上司がいるケースもある事は承知ですけど(笑)

7月 28, 2012

たかが、ちょっとした差

「このくらいの差は誤差の範囲」
私たちの仕事では特に色に関して、よくそんな事が言われます。

これは基本的に「そのくらいの差は普段人間は意識していない/差別化出来ない」という考え方から来ているのでしょうね。
ま、どこまでが誤差の範囲でどこからが違う色なのか?というのはありますが、人間はそんなに微妙な色の差が分らないんでしょうか。

確かにちょっと似通った二つの色を別々に見せられて違いが分るか?と言われても注意して見ない限りなかなかその違いをハッキリと答えられる人は少ないかもしれません。
しかし、その際、人の受け取る色の微妙なニュアンスからくる印象は無意識の部類も含め意外とはっきりと人に信号を届けているのではないかと思います。

いつも会う人の髪の毛の色が少し変っていても、もしかしたらその事には気付かないかもしれません。でも、印象として「なんとなくキリっとした」とか「なんか明るい感じ」とか、何か今までとは変わったものを感じてると思うのです。

本人から言われたり暫く経ってから「ああ、髪の色を少し変えたのか」となるかも知れませんが同時に「だからか」と思う事も少なくないのではないでしょうか。
要は認知するではなく認識するということでしょうかね。

色のちょっとした差は、意外と異なった情報を発信しています。
同じ “誤差の範囲” と思われそうな黄色でも発色の良い元気のいい黄色と、少し濁って黒ずんでいる色、若干明るく白っちゃけている色とは、やはり見る人に違った印象を与えます。

ですから制作者はそういう事にこだわるわけで、決して自己満足のためではないんです(笑)。

もちろん、こだわればこだわるほどコストもかかってしまいがちなのは否定出来ませんが、そのこだわりの金額の差で、もしかしたらそれ以上の損につながる間違った印象を人に与えてしまっている可能性も大いにあるんですよ。

7月 19, 2012

人の反応


以前に見た事があるものと、全くはじめて見るもの。
この二つの選択肢で考えると当然の事ながら前者の方が人を安心させます。

全くはじめて見るものは人を不安にさせ、人はそれを敬遠します。

「いや、俺は、はじめて見るものは歓迎だ。いつも人生に驚きを求めながら生きている。」

という人は沢山いますが、そういう人でさえ本当の意味での自分の許容範囲を超えた驚きは求めていないのではないかと思うのです。

そういう人たちの求めているのはあくまでも刺激であって、その範囲での驚きであり、自分の中の知識や経験の何とも結びつかず、よって理解する事が全く出来ないようなものは刺激としては感じられずただ不快なものとして認識されるのではないかと。

つまり、「これは驚きだ!すごく面白い!」と刺激として感じられるレベルの驚きは、もとからその人にとって許容範囲のものであって、私の定義する驚きとはちょっと違うという事ですね。

仕事の中でも、よく「驚きがない」とか「驚かしてくれ!」なんていう言葉を使ったり聞いたりしますが、当然それはここで言う本当の意味での驚きの事ではなく、その人の許容範囲での中の刺激です。
許容範囲の話というのは、許容範囲を越える越えないという、“程度の問題” ということです。
私が思うに、究極の、本当に人間が想像すら出来ない “見た事がないもの” など、おそらく人間自身が生み出す事なんて無理だからです。

私たちが「驚きが欲しい」「驚かせてくれ」と誰かに期待された場合、いくらそれが自分たちにとって刺激的という範囲でも、その期待を求めた人の許容範囲を越えてはいけないということです。

これは実は凄く当たり前の事で、例えば誕生日のサプライズなど、わざわざこんなこと考えてやっている訳ではなく、無意識にちゃんとその範囲でやっている話ですよね。

にも関わらず、仕事などで改まってこのような言葉が出て来ると「驚かさなきゃ」と頑張る方は “驚き” という言葉に引っ張られるのか、その加減を見誤ってしまうパターンが結構あるんですよね。

それは当然驚かせる相手によって変り、私たちの仕事で言うと、クライアントである発信者自身を驚かせるのか?そのお客さんである人たちなのか?それとも同業の仲間たちなのか?なんとか賞の審査員なのか?でだいぶ変ってしまいます。

知らず知らずに同業者を驚かす感じで突っ走ってしまい、末端のお客さんには、単に理解不能で落ち着かない、安心感のないものに成ってしまってたら、それは肝心な人たちにメッセージを届ける事の出来ない機能不全なものに成ってしまいますよね。

7月 12, 2012

“引き寄せる”は本当なのか


よく聞く言葉の一つに「思った事や口にしたネガティブな言葉は、例え冗談だとしても、実際にそういう状況を引き寄せてしまう」というようなものがあります。

「お金がない」とか「自分には無理」とか「仕事がつまらない」とか。「会社のレベルが低い」なんていうのも、その中に入るのでしょうか。
どうもこのような事を特に口に出して言うと、脳が現実でも本当に(あるいは、更にもっと?)そうなる様に、無意識に自分の行動をコントロールするそうなんです。
それを理由として逆にポジティブに思考する事で幸運を引き寄せよう!とか、成功を目指そう!といった主張もありますよね。

私が超お金持ちに成れてないのは信じ方が足りないのでしょうか。それとも心の何処かでそう成れる事を疑っているのでしょうか。

この事とは一見違う種類のものなんですが、同じ “引き寄せる” というものの一つに「自分を安く売っている人の周りにはお金のない人しか寄ってこない」というものがあり気になっています。まぁ、これには「確かにその通りかも」と思い当たるところがいくつかあります。

安売りイメージのビジュアルは、そういう人を惹き付ける為のものであって、そういうビジュアルを使うという事は、つまり、そういう人たちをターゲットにしている、という事になりますよね。だから「そうしないと売れないから」という言葉が出て来るのは当然だと思っています。相手はそういう人なのですから。

しかし私は、よく聞く「今や、みんなお金を持っていないんだから、そうするしかものを売る方法なんてない」という言い分には若干疑問を持っています。
利益を下げて安く売るから大量に売らなきゃならなくなり、大量に売る為に今やもっとも対象者数が多いと思われているお金のあまり無い層、お金を使いたく無い層をターゲットにせざるを得ないといった事になっているケースは無いでしょうか。実際高くても売れるものは、ちゃんと売れてる様に見えますし。

ですので、その商品を本来どういう人に買ってもらいたいのか、どういう人にファンになってほしいのか、どんなイメージとともに残したいのかを改めてきちんと整理し、ちゃんと定めた上でどういうビジュアル(イメージ)を使ったアプローチをするのかを決めないと、望まない層を惹き付けブランドに二度と立ち上がれないくらいのダメージを与えかねない事をしてしまう可能性があるのです。

さて、最初に触れた「思った事や口にしたネガティブな言葉は、例え冗談だとしても、実際にそういう状況を引き寄せてしまう」という問題ですが、それが本当かどうかは私にはわかりません。

ただ、そういう考えや自分の発した言葉が自分の思考にまったく影響しないとは考えづらいのも確かです。
そして、そうしたちょっとした事が “何かを信じる” 事をちょっとでも阻害するとすれば、それは間違いなく行動にも影響すると思います。
人間は、最低限自分が信じてない事は本気でやろうとしないでしょうし、それはつまり始める前から自分で自分にブレーキをかけているのと同じですよね。

広告や販促物で、どんなに素晴らしいスローガンやキャッチコピー、ビジュアルなどで競合と差別化しターゲットに対しメッセージしていたとしても、社員や売っている人たちがその事を信じていなければ、おそらくその企業や商品、サービスは、それらがブランドとして目指す “そうありたい姿” として、ターゲットの心の中に存在する事は難しいです。

つまりそれは、そういう結果を “引き寄せ” ているのと同じ事だということですね。

7月 06, 2012

“それ” じゃなくて良い事


何に関してもですが、よく考えてみると “それ” でなくて良いものって意外とありますよね。

例えば、習慣となってしまい、もう既にいちいち考える事なくやっていることや、理由は曖昧だけどルールとしてそう決められている事の中に、そういう発見が見つかったりするのではないでしょうか。

それらが “なぜ” そのやり方で行われているのか? “なぜ” そのツールを使って行われるのか?等の根本的な本来の目的に立ち返ることで、時の流れとともに、それが始められたときの意図とずれて来ているにも拘らず手法や手順だけがそのまま形式化されて残ってしまっているものを発見するという、所謂「常識を疑え!」的なやつですね。「だったら、こっちの方がいい」という改善です。

その改善に繋がる発見に “意外性” という要素が加わったとき、その解決策は “ヒラメキのある” とか “アイデアがある” なんて言われたりします。

その発見に気付く為に必要な事が前述した「本来の目的」です。
要はこの目的がぼんやりと霞んで見えなくなってしまっている事が問題で、実はそういうのって周りにいっぱいあるんですよね。

この問題の改善に参考になるものの一つに、横田 尚哉さん著『ワンランク上の問題解決の技術(実践編)』という本があります。2008年に出版された本で、この本を初めて読んだ時には、普段、ディレクター、またはデザイナーとして、自分たちが考えずに何となくやっている事を理論的にきちんとプロセスとして体系立て説明されている事に驚き、また「ふつうに普段やってるよ」と思うような事でも、そのようにして説明をつける事で初めて、ムラのない、本当に使えるものに出来るんだなぁと思ったのを憶えています。

さて、本来の目的をきちんと見つめなおす事で、おのずと、それらが本当に必要な事か?それでなければならないのか?の答えが浮かび上がって来ると思いますが、そのとき自分は、どんなレベルの “それ” じゃないものを提示する事が出来るか。レベルがある意味上がると今度はそこが課題になってきます。

これに関しては、私たちは普段から色々なケースやパターンを蓄積し、出来るだけ多くのものを自分の引き出しに、いつでも取り出し可能な形でしまう様にする他ありません。
ポイントは取り出し可能な形というところなのですが、その蓄積してある情報が “どのような目的を果たせるものなのか?” という、出来るだけ大きく分類された目的別のラベルを貼って記憶することで、いざという時に取り出しやすくしておくのが良いのではないでしょうか。

やはりここでも大切なのは “目的” なんですね。