以前に見た事があるものと、全くはじめて見るもの。
この二つの選択肢で考えると当然の事ながら前者の方が人を安心させます。
全くはじめて見るものは人を不安にさせ、人はそれを敬遠します。
「いや、俺は、はじめて見るものは歓迎だ。いつも人生に驚きを求めながら生きている。」
という人は沢山いますが、そういう人でさえ本当の意味での自分の許容範囲を超えた驚きは求めていないのではないかと思うのです。
そういう人たちの求めているのはあくまでも刺激であって、その範囲での驚きであり、自分の中の知識や経験の何とも結びつかず、よって理解する事が全く出来ないようなものは刺激としては感じられずただ不快なものとして認識されるのではないかと。
つまり、「これは驚きだ!すごく面白い!」と刺激として感じられるレベルの驚きは、もとからその人にとって許容範囲のものであって、私の定義する驚きとはちょっと違うという事ですね。
仕事の中でも、よく「驚きがない」とか「驚かしてくれ!」なんていう言葉を使ったり聞いたりしますが、当然それはここで言う本当の意味での驚きの事ではなく、その人の許容範囲での中の刺激です。
許容範囲の話というのは、許容範囲を越える越えないという、“程度の問題” ということです。
私が思うに、究極の、本当に人間が想像すら出来ない “見た事がないもの” など、おそらく人間自身が生み出す事なんて無理だからです。
私たちが「驚きが欲しい」「驚かせてくれ」と誰かに期待された場合、いくらそれが自分たちにとって刺激的という範囲でも、その期待を求めた人の許容範囲を越えてはいけないということです。
これは実は凄く当たり前の事で、例えば誕生日のサプライズなど、わざわざこんなこと考えてやっている訳ではなく、無意識にちゃんとその範囲でやっている話ですよね。
にも関わらず、仕事などで改まってこのような言葉が出て来ると「驚かさなきゃ」と頑張る方は “驚き” という言葉に引っ張られるのか、その加減を見誤ってしまうパターンが結構あるんですよね。
それは当然驚かせる相手によって変り、私たちの仕事で言うと、クライアントである発信者自身を驚かせるのか?そのお客さんである人たちなのか?それとも同業の仲間たちなのか?なんとか賞の審査員なのか?でだいぶ変ってしまいます。
知らず知らずに同業者を驚かす感じで突っ走ってしまい、末端のお客さんには、単に理解不能で落ち着かない、安心感のないものに成ってしまってたら、それは肝心な人たちにメッセージを届ける事の出来ない機能不全なものに成ってしまいますよね。
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